[未校訂]㈢ 天保四年の大地震
天保四年十月廿六日、越後、佐渡、庄内海岸に昭和三
十九年の新潟地震とほぼ同規模とみられる大地震が発生
し、新発田藩の日本海沿岸地方に大被害を及ぼした。沼
垂方面の地震については本書六十五頁㈢地震の項で記述
したが、山ノ下新田名主家に残されたこの地震の文書記
録から山ノ下新田の場合につき記述する。
十月廿六日七つ時(午後四時ころ)山ノ下は大地震で
多くの家が大損害を受け、大地が割れて水をふき出し、
大津波が四、五回にわたり押し寄せて河岸の堤防を破壊
して全村水浸しとなった。床上浸水した家もあり、のみ
ならず全村漁村の漁網は全部流出してしまった。山ノ下
新田名主と組頭は翌廿七日早朝大庄屋あてに届書を提出
したが、折から藩より地震調査のため沼垂へ出張中であ
った榎本渋右衛門、中村武八郎の両役人へも届書を出し
て御役人の実地御検分を願い出た。そこで同廿九日には
沼垂から中村武八郎が山ノ下新田へ出向き、村役人の案
内で被害人家へ戸ごとに訪れて検分をした。
中村武八郎が検分した結果、山ノ下新田の家屋被害は
[潰家|つぶれや]一軒、半潰家一軒、大破した家七軒、合計九軒と認
定され、十月廿九日の検分に立ち会った山ノ下新田組頭
喜助、同村名主善六、蒲原横越組大庄屋代現蒲原村名主
軍之丞は中村武八郎あてにその御請書を提出した。被害
家屋内訳次の通り。
一潰家 一軒 山ノ下新田名子 卯之助
一半潰 一軒 同村 名子 太之助
一大破家 七軒 同村名子権兵衛 借家
滝蔵
同 村 名子 権兵衛
同 村 名子 市助
榎新田本家 庄兵衛
同 村 名子 藤助
同 村 名子 庄八
同 村 名子 小右衛門
なお、この大地震で漁具を残らず流失した漁民のうち、
田畑を持たず漁業一本で暮しているごく貧窮の者十二
軒、その人数七十三人に対し、[飢者御手当|うえものおてあて]の支給を十月
廿九日付で山ノ下新田組頭と同名主の連署で大庄屋所経
由、藩へ願い出た。
この飢者御手当願いに対し藩はこれを許可し、その年
十一月十三日、蒲原横越組大庄屋小林順之助、建部道太
は山ノ下新田名主善六あてに、来る十四日沼垂御蔵所に
て山ノ下新田飢者御手当として[稗|ひえ]四石七斗七升を受け取
るように通知した。
飢者御手当の期限は十二月十日で切れるが、困窮状態
は少しも改善されず、そのうえさらに仁平次、甚四郎、
権次郎、市助、権兵衛、太右衛門、与八の七軒(四十八
人)の追加願いを出さねばならなくなり、名主善六、組
頭喜助は連署して十二月十一日から翌正月十一日まで三
十日間の飢者御手当支給を大庄屋所へ願い出た。
追加七軒四十八人を含めた第二次飢者御手当願い(十
四軒百二十一人分)は、十二月廿四日聞き入れられ、廿
六日に当年納稗のうちから支給されることになり、村で
は沼垂御蔵所から稗七石三斗四升七合九勺を受け取り十
二月廿八日それぞれ該当者に分配した。また十二月十五
日には山ノ下新田の地震による潰家の宇之助には一貫五
百五拾文、半潰家の太之助には七百五拾文の御手当金が
それぞれ藩から支給された。
また山ノ下新田がその年地震前の八月に、不漁で困窮
しているために御払出米二十俵を願い出て許され、その
代金十五両二朱永二拾五文一厘五毛は十二月納付の請書
を提出していたところ、地震に見舞われたので、翌五月
までの延期を願い出た。納め得る者の分だけでも納めて
後の分は延納願を出すように指導されたが、地震後の全
村民の窮状を述べて再度願い出て翌五月までの延納を認
められた。
このように地震に痛めつけられた山ノ下新田の住民
は、困窮のうちに年を越したが、大庄屋所からは厳しい
倹約の布令が回ってきた。それによると、正月三が日は
例年通りの食物でよいが、酒は一切まかりならぬ。四日
からは平常食とし、年頭の回礼は一切禁止、酒はいかな
る場合も飲んではならぬ。餅は来秋の収穫をみるまでは
ついてはならぬと言う厳しさであった。
そして翌年になっても地震の後遺症は住民を悩まし続
けた。地震後悪疫が流行して全家族寝込む家が六軒(三
十六人)に及んだ。赤痢の大流行ではなかったかと推考
されるが史料を欠く。これら病人には飢者御手当として
かゆが十二月廿四日から正月廿四日まで現物で支給され
てきたが、支給期間が切れたので、天保五年二月継続支
給を名主善六と組頭が連署して大庄屋所へ願い出た文書
が残っている。しかし、その後の記録を欠く。