Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J1003045
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1833/12/07
和暦 天保四年十月二十六日
綱文 天保四年十月二十六日(一八三三・一二・七)〔両羽・越後〕
書名 〔野合日記 上〕○山形県鶴岡市郷土資料館
本文
[未校訂]十月
同廿六日天気風雨ニ成り、風むしあつく気味悪き天気之
処、七ツ時少し前大地震、止候て又間もなくゆり直し、
是ハ先よりハ大ニ弱く外へは出ぬ也、尤少しの内也、夫
より此夜少しつゝ拾度斗、其後昼夜三四度、又壱弐度つゝ
折々廿日斗も地震気有之、扨々おしき心持成るもの也、
文化元子年の六月三日大地震ハ予五歳ニて其強弱の程も
能知らされとも、咄を聞に其節は夜中寝込ニて格別騒き、
尤三度迄強き地震成るよし、此度ハ強キは壱度なれとも
御城下ハ諸痛処土蔵壁垣等子年ゟハ痛多く、却て強かる
へきよし、されと潰家等は尤無之事也、先年ハ川北酒田
辺至而強く過半潰家ニ而鳥海よりゆりたるよし、此度ハ
何方よりと言事なし、川北其場処ニより甚強く潰家も多
く有よし、酒田は潰家もなく御城下此方同様位之事ニ相
聞へたり、広野新田村、大淵村辺甚強く潰家半潰家多く
有之よし、其場処ニより強弱大ニ不同なるやうニ聞へ候、
いつれ川辺等又は早之湿地ハ強キ様ニ承ル、此地震は先
年も有之しが津浪と言事は荒海ニはなきものと聞しよ
り、前代未曾有之天変ニ而、右地震ゆり直しの頃津浪之
よし、誠恐ろ敷事也、壱度は大浪弐度めハ夫より大ニ弱
く、三度め又少し後は平浪ニ成りたるよし、全く地震浪
也、塩は加茂澗沖鼻くり迄引たりしよし、常ニ無之塩干
也、尤用心可有事ニや、加茂村ニて流失家三軒、潰家廿
軒斗、水押家夥敷都合六拾九軒、其外縁下一はいニ水入
候は上仲町、下仲町、浜通不残、泊町は両側とも一円、
浜町は大方潰家并潰家同様之体、澗役処口銭方役処潰家
同様、家財流失、水死人加茂村ニて四人、宮沢村ニ而四
人、油戸村壱人、都合男女九人、金沢宮沢今泉油戸ニて
流失家九軒、潰家同様三拾軒斗、其外波押家夥敷右村々
の中極窮者百拾一軒、人数五百三人江為御救米一日壱人
弐合つゝ積弐拾表被下、金も流失家之者組中者江六両被
下、扨困タ事ハ漁舟流失破船中破小痛等夥敷、家業当惑
之よし、右は加茂大庄屋より書状也 湯の浜湯坪埋ミ其
節湯入人死したる者も有之よし、湯蔵堂流失之よし、福
浦の方ハ弱キかといふ、上の方浜通一円津波ニて小波渡
出はつれ茶屋なとハ家内ともふタ浪ニ取られたるよし、
不便(憫)なり、五十川橋石垣地震ニ壊たる処浪ニて橋とられ
たるよし、茶屋之一抱ある岩なと打上たる由、不思儀也、
鼡関御役家へも津浪ニ而家財流失のよし、関弁天宮無難
きしといふ、其あら増を許筆止ぬ、旅人等浪ニ取られた
るも間々有之よし聞ゆ
今年大凶作物成三ツ七リン四毛九払渡り、米直段両ニ壱
表の事もあり、大豆は五貫五百文なとする、赤豆は壱升
弐百文、何もかも諸品其高直前代未聞、誠ニ悪年也、人
気以之外、騒かしく他処の咄を聞処、御国は誠最上〳〵
恐悦也、来年豊作祈のミ
御届書抜写 略也(以下は頭書)
□(頭切れ)家潰家 三拾弐軒
□民家潰家 四百六十三軒
□同流失 十八軒
□高札場流失 弐ヶ所
□堂潰 弐宮
寺潰 壱ヶ寺
社家潰 弐軒
土蔵潰 弐拾五
同流失 四
稲蔵潰 六
小屋潰 三拾六軒
同流失 弐百九十三軒
大小橋流落 八ヶ所
大小船流失 三百三拾弐艘
外痛 百五十七艘
川除土手崩痛 十四ヶ処
但内壱ヶ処長弐百十五間程五尺位地沈
山崩 九処
街道 弐拾弐ヶ処
長八拾間位ゟ三間位迄地大裂泥水吹出大痛
外弐尺位之小裂数百処不知数
樹木倒 弐十四本
稲流失 一万弐千三百束
木同 六拾五俵余
籾同 三百九十三俵余
雑穀同 百八拾七表余
死人 四拾四人
内弐人秋田郡比内之者
怪我人 拾弐人
斃馬 六疋
斃牛 壱疋
□(頭切れ)月廿九日御損毛届
□向拾三万三千三百五拾壱石余
□午春赤豆壱升弐百四五十文
壱表拾弐貫文 改事也
出典 新収日本地震史料 第4巻
ページ 674
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 山形
市区町村 鶴岡【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

IIIF Curation Viewerで開く
地震研究所特別資料データベースのコレクションで見る

検索時間: 0.001秒