[未校訂]「近辺中興珍事記録」に書かれた災害
日坂区 所蔵
一天保四ツの年(一八三三)癸巳四月九日午之時大じし
んニ而、濃州東津汲村山之内字南新谷之西道うへ山折
くすれ出、此時日坂下村久作女房ひな幷七右衛門娘は
や合テ三人、右山くずれニ而空ク即死す。これは善知
識様関東御下向の御かへりを拝せんと、右之者共びび
しくきかざり家を出ほうぼう通りし。俄に大地震村々
所々合テ三拾人余も即死之者あり。右大じしんニ而
山々谷々ぬけ出ルをと、大づゝのなるがごとし。土こ
のたつあり様ハさながらふぶきのごとし。人のかをい
うみるにみられず、扨又村役衆右即死元より大庄屋方
へ相届ケ候様被申、七右衛門方より北山名主惣代かし
原村喜太夫殿まで相届ケ其後、御代官様三倉村より東
津汲山大ぬけ之御見分、其節太次衛申上名主七蔵儀大
キニぶち不被致御わびニ而相済、東津汲名主吉蔵殿も、
支配地ニ即死の御届不申これもぶち候。依之此者共支
配地之内ふしぎ成事御座候ハゝ、大庄屋方迄早々御届
可上申事。天保四癸巳年四月十四日、五、六日両三日
善知しき様みたけ宿ニをいて御なんじゆ、右両三日が
間□□□□□あこ御成被遊、寺々不残村々の志シ有候
同行参り候。なをまた大じしんハ四月九日より廿日迄。
「歳々珍事記録」に書かれた災害
岐阜市 高橋博美氏 所蔵
一天保四年巳(一八三三)四月九日事之外大地しん、乙
原村より東津汲村迄之間大損所大ぬけと申処ニ而日坂
村之人三人一所ニ而死ス。其外樫原村上ニ而坂本之人
死ス。西津汲志ら倉ニ而死ス。其外随所之事委敷知れ
かたし。潰家人数多なり。小地しんハ年内中ゆり候事。