[未校訂]○京師の地震
本月二日、[日晡|じつぼ]に始めて[震|ふる]う。凡そ震うこと三次、極め
て大。屋を破り人を圧すること極めて多し。二条大番新
庄侯の官舎はみな圧す。[与力|よりき]同心の死傷もまた少からず。
時々地は[殷々然|いんいんぜん]として鳴り、四日に至って始めて定まる。
太上皇は御苑中に露宿せらると。森君の親戚の大番士が
報ずるところ。
○京師の地震
七月二日、暑きこと甚だし。午後、忽然として陰暗、少
時にして地底数鳴し、[砲|ほう]を発する響の如し。居室の震揚
すること、おもうに丈余ばかり。忽ちまた墜下し、屋瓦
は連崩して流るるが如く、舎宅は[傾敧|けいき]し、人はみな出で
避く。少間にして忽ちまた一動すること前の如く、向の
傾敧せるものはみな壊圧す。三日にまた一震すること昨
の如し。これより日夜に連なって地は[殷々|いんいん]として鳴動し、
二十一日に至るも未だ鎮定せず。二条衙城、天守台、諸
門番頭(新庄君宅をいうが如し)、与力(半敧半圧)、同
心の舎みな倒覆す。塁石の崩落すること数十丈、その中
突出して抜落するものは数を知らず。城の北堤は崩れて
溝を塡め、溝水は溢れて立ちどころに渺漫し、所司邸の
門前は奔流して河を成し、邸中の[廨舎|かいしや]は一時に顚覆す。
城中の死者数人、傷者十余人、洛中の死傷は頗る多し。
然れども震は在るに随って軽重あり、林公の錦巷宅はた
だ庁事傾敧し、余は屋壁数処が圻裂せるのみ。その土蔵
は崩倒せり。洛中の男女は、みな出でて竹田に避く。道
に露する処は、日に[曝|さら]され暑は[酷|はげ]しく、苦しみは言うべ
からず。二条衙西の門橋は傾斜して過ぐべからず、然れ
ども衆は飢えて[仰食|ぎようしよく]し、人は僅かに米五升を嚢にして入
る、多ければ過ぐべからずという。大内仙洞は震すと雖
も、衙城の如くは甚だしからず。凡そ震処は[伏水|ふしみ]に及ぶ。
宇治川の水は暴起して立壁の如しと。初めこれを聞き意
に疑う。浪華もまた然るべし、[懊悵|おうちよう]すること甚だし。然
れども震は頗る大なれども小異なく、洛人は往々にして
往保すという。また聞く、土御門の奏に、震はこれに止
まらず、なお再震しますます大なるべしと。故に人は
[洶々|きようきよう]として今に及ぶまで安からず、大概みな野に露す
という(二条の番士某君の書を撮録す)。
また云う、丹の亀山城はみな崩れ、震勢は京に比してま
た大なりと。また云う、伝聞するに[若州|わかさ]の海水は震蕩し
[港澳|こういく]はみな変ずと。また云う、地は殷々として鳴動し、
みな西北方より来ると。また云う、番士山角君主税は東
下し、土山駅にいたるに震することは極めて微なり、然
るに衙城の震すること甚だしと聞き、また還って二条に
入ると。十二日、膳所侯の手書の報ずるところにまた云
う、膳所の震勢は頗る小にして、城壁に[微|びたく]圻諸処ありし
のみ、ただ地は殷々として鳴動し、西北方より来るもの
未だ止まずと。呉服商後藤の手代云う、十四日・十五日
大雨、大和河内の水は漲り、二十一日・二十二日洛中再
震、二日・三日に比すればやや小なりと(これを渋凡斎
子に聞く)。
善竹曰く、七月朔夜、愛宕山の僧侶は山下の地[殷々|いんいん]とし
て鳴るを聞き、みな山を下る。この日、屋舎みな崩壊し
たれども、一人の傷者なしと。また曰く、嵯峨の民家は
崩壊したれども、釈迦像は[儼然|げんぜん]として倒仆せずと。小田
切藤軒はこれを壬生宝金剛院より聞く、七月二日醍醐山
の宴集に游ぶ者あり、遙かに愛宕山頂が動揺して波濤の
状の如くなるを[瞻|み]て、酔中に且つ怪しみ且つ喜ぶ。時を
移して震はその処にいたる、すなわちこの震は愛宕山よ
り起ると。本月二日の山本老の報、七月二日に京は大震、
以後は日に五六動、二十日にいたり大水、宇治橋は断ち、
三条橋は人を渡さず、清水の舞台は[敗頽|はいたい]し、土蔵の京に
在るものは尽く壊れ、二条城の外郭は大崩し、みな云う
数百年来[未曽有|みぞう]の変なりと。大坂はその日の七鼓半に大
震、後はまた動かず、然れども江戸に在りては未だかく
の如きの震に遇わず。
玉露叢十五。寛文の年京師の地の震うこと極めて大にし
て日に二十七八度、或いは三十度にて四日に至る。その
後は日に動き七月に至って止む。まさに震せんとすれば、
地は鳴動して車行の響の如くにして震これに従う。震は
近江に及び、近江志賀郡榎村にては三百人死す。同郡の
町村三百人中、活くる者は三十七人。
(十二月六日の条)
○[京師|けいし]の地震は、俗間に伝えて改元の事となす。過月七
日、京師はまた大いに震い、相伝えて天保或いは正文と
改元すと云う。
(十二月十七日)
京師の地震はなお未だ定まらず。