[未校訂]文政九戌年七月廿五日午上刻大地震、引続鳴動折々数日
小地震数しれず、八月中も時々又九月も極月迄も折々。
当年諸国共前代未聞之豊作四月より暑を催、端午帷子一
重にて八朔も一重帷子、珍敷温気故諸作相進み其外桔
梗・鼠尾草等六月のうち花盛にて、盆供みぞはぎなし右
[体|てい]温気充満之故に大地震発動候哉、実に当国稀代之珍事
也。
百廿年以前宝永四亥年十月四日高山大地震にて、家々よ
り町なか或は畑中へ戸板を持出候由、法華寺日謹老師十
三才之時にて、寺うち雨戸出口〳〵戸を開候由日謹師の
噺歩簫承り候而已、老師十三才之節なれば其余之事共不レ
知其以来か程之地震なしと見え候、宝永四年富士山焼と
申事年代記に有之彌百廿年目之珍事と相見え候、いづれ
にも陽気充満なる故に諸作よろしく、四十四年前天明三
卯年田畑草出来宜満作之体に候所、卯七月五日より八日
朝迄日数四日之間鳴動、其後以之外冷気故田畑実入なく
日本凶作と相成候也、これは信州あさま焼之所為也然ば
当年も何国にか変事可有之ものか、又十二年以前文化
十二亥年正月廿一日夜戌刻珍敷地震にて、余り震動強か
らず只長くゆり障子など動き候を風の吹にてあるかと思
へり、是は数刻鳴り続く故也当戌年之地震隣国他国さし
たる儀無之由、高山より北東之方のみ強く候由何国も諸
作十分也豊年木わた上作也。