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項目 内容
ID J1001957
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1821/12/13
和暦 文政四年十一月十九日
綱文 文政四年十一月十九日(一八二一・一二・一三)〔岩代国大沼郡大石組〕日光・高田
書名 〔三島町誌〕
本文
[未校訂]㈡ 沼沢
 文政四年(一八二一)の夏は気候良く秋に入って諸作
熟り心安していた処、十一月十九日朝五ツ半頃(朝九時)
突然大地震鳴動し、屋根は三尺程左右に揺れ、軒は大地
に触るゝかと疑われ、池の水は半揺れ出し、諸民家、供
養塔、石塔籠等残らず倒れ、湯鍋揺れて火傷する者無数、
或は二階落ち、天井枯らしていた薪木が飛び落ち怪俄す
る者もあり、全く阿鼻叫喚の地獄であった。太郎布では
鳴動頗る強く土蔵の土は殆ど砂となり、堂宇は柱が基礎
からはづれ、家々の折戸や障子を微塵にし、逃げ惑ふ老
幼男女の声物凄かった。牛は外に繫いだが友を呼ぶ声譬
ふるに物がない。人々は地震の方角は沼の方なりとか又
は高盛山の方なりと伝えた。袴腰山、沼嶽山など山割れ、
岩は裂けて沼へ崩れ込み、岩石や大木が崩るゝ音大雷の
如く何とも手出しかね、只管神仏に祈るより外なく、鹿
島へ立源(願)し、伊勢へ代参を遣わし、四国琴平に願を掛け、
近郷の社寺には地妖鎮護の祈願をした。人は皆沼沢沼が
抜ける事を気遣い、安心がならなかった。大谷組浅岐、
間方、黒沢など地震が強かったが被害は少なかった。毎
日余震が続いた。その重なるものを挙げんに。
十二月一日夕及び夜は激震
〃 十八日大地震
文化四(五カ)年元日大地震
一月四日沼嶽三末ふなの岩石の崩れる音もの凄し
一月六日大地震
一月十九日、廿一日、廿二日、廿三日、廿六日地震。
其后二、三ケ月間鳴動、然し一月四日、六日が最も強
かった。
大石組が揺り沈んで海に成るとか、正月八日頃から十九
日頃迄山が倒没するとの流言があり、向根岸の人々は皆
仰天した。
善后策
男には一日五合、女には三合の扶持を下され、味噌は
二人で一日二十匁の割で代金を渡された。そして強制的
に避難させられた。
避難さき
一沼沢村―福沢村入へ
一竹田村―桑ノ原、宮下村へ
一沼沢村の内十一軒―松山、野尻へ(但し縁故ある者は願出によって)
一太郎布村―松山村から野尻村へ
一大栗山村―西方村へ
一三更村―大登村へ
一水沼村―名入村へ
〆六ケ村は正月十五日引越し。
一玉梨村―下中津川村へ
一中井村―野尻村へ。但し川下は小中津川村へ
一八町村―大芦村へ
一小栗山村―野尻中向へ
一川口村―西谷村・大塩組村々へ
一坂下村―川井村へ
一宮崎村―滝谷村・桧原村へ
〆九ケ村は正月廿一日引越し
大石組中に引越中は御扶持米大凡千五百俵、味噌代七
十両余、薪木代六十四両下さる。代官鈴木覚左衛門、
篠田覚左衛門、十三日に大石村に着。この外普請掛り
小林民之助。その他阿部周助、宮下理喜之助、大束理
左衛門、佐藤弥助、小平潟秀三郎、鈴木覚弥の役人出
張して住所小屋掛け等の事務を管督し、村民から感謝
された。この地震の被害は民家破壊百三十軒。大破小
破三百軒余、人畜若干死。文政五年正月四日は是より
強かったがその記録が見当らない。
出典 新収日本地震史料 第4巻
ページ 408
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 福島
市区町村 三島【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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