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項目 内容
ID J1001050
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1804/07/10
和暦 文化元年六月四日
綱文 文化元年六月四日(一八〇四・七・一〇)〔羽前・羽後〕
書名 〔田舎噺 全〕鶴岡市郷土資料館
本文
[未校訂]田舎噺
天に震雷風火水之五災あり、各時節䒾之定ありて、其時
に至れは堯舜文武の御世とても其災を免るゝ事不能とか
や、去れは出羽之国ハ余所の国よりも貴き霊山霊仏神数
多有か、中にも庄内ハ四神相応之都地に等しく、東ハ羽
黒山、南ハ湯殿山、西ハ金峰山、北ハ鳥海山有て、四時
風調雨順にして五穀能実のり、時に応じて万民太平之化
をなし、快楽に誇りて春の花、秋の月をも弄ふ天なる哉、
時なるかな今年文化元甲子年六月四日庄内田川郡・飽海
郡同国由利郡之大地震ハ、本朝累世之旧記にも未たかゝ
る事を録せすとかや、抑六月四日雲霧天を覆ひ日月の光
を奪ふ、其夜亥の刻斗の事なるに、申酉の方より動く来
る事大涛のことし、民家の崩るゝ事たといをとるにもの
なし、此三郡之内飽海郡・由利郡至而つよく、先つ酒田
の事を申演ん、四日の夜亀ケ崎御城代御役家を始、御家
中方家居并土蔵小屋等の類まて大方倒れ、大手の橋ハ中
程より二ツに折れ、地震の後ハ仮りに繕ひ、往来は御蔵
前土蔵も有増し崩れ、内町通より舟端町端れまて大方倒
れ、漸残有も傾破に及ひぬ、地震最中に片町何某の潰家
より出火し、数町焼通といへ共誰有て防ものなし、爰に
哀れなるは、其町者役人の悴廿才に成、其妹の十三才に
成しか、妹か家を出兼てもたへさまよふを見かね危き家
に走り入、漸尋連出んとせしに、又もゆりくる大地震に
家も倒れ、弐人共に梁に押れ出るも入も不叶、助けくれ
よと呼声かすかに聞ヘルる故、有逢ふ人々そこよ爰よと
もがく内忽ち其家に燃付、終に弐人を焼殺せしとそ、す
わやと見間に在々にも数ケ所の出火、又寺々の物かたり
を聞に、常の地震に異変して仏壇位牌の崩るゝ音は雷の
如く、そこ〳〵にこたまして是を見聞人家を出、難を遁
るゝといへとも魂を失ひ身の彳(たたず)む所をしらす、畏それ驚
かさるはなかりし、誰人も命斗助り埋火も消し出けれは
燈し火迚もまばら也、月さへ入てしんの闇何方へ逃行助
らんにも、大地ハさけて水涌出流るゝ事ハ脚の半をこへ
跡へも先へも難叶、父母妻子けんそく板戸杉戸畳抔を敷
重、仏神を頼より外他事なく、手に手を取、其夜の明る
を待そ久しける、又米屋町辺の事なるよし、壱人の老母
を持てる男あり、其頃此老母大病を煩ひ療薬も叶ひかた
く、今日よ明日よとかん病せし折、此地震に逢ふあたり、
隣の人々急き参りて是程の大地震早く出て命を助り給へ
と言に、彼男の曰く、我れ母のいまわの際を見捨て、此
難を遁れ百寿を保つとも何の喜かあらん、是を見捨ハ烏
鳩にも劣るならんと心決し、少も畏れす伽し出さりける
に、此家恙なく残り、母も自然と快気いたし、家内の調
度一ツも失なはさりしとそ、是や天孝子の門を感し此難
をまぬかれしめしか、其外愚なるは財を失じと再ひ物取
りに入家潰或ハ天井よりもの落て死し、又只恐れて蔵に
数多籠りて潰れ死せしものも有よし、大地は割て川の如
く、川や堀等泥もりあけて平地よりも高し、酒田南の飯
盛山四五丈位も窪ミたるよし、同五日の暮酉の刻、同六
日朝卯之下刻に又大地震し、四日の夜潰れ残りて嬉しや
と悦しも、此両日につふれしも数多あれハ、今日ハ人の
上明日ハ我が家も如何あらんと思は胆も魂も身に不添、
何国も同し人心難義の時の神たのみ、町々在々共に百万
遍の執行専ら也、平生此時の心持ならハ極楽往生うたか
ふ事有へからす、此間日日止む事なけれは外に仮り家を
しつらい、少きハ七日多きハ十日位仮家の住居をなし、
家業勤ムるもの稀なり、又飽海郡の内東ハ平田郷・中ハ
荒瀬郷・西ハ遊左郷なり、此三郷之内遊左郷至てつよき
にや痛も格別也、川埋留りて水ハ溢れ、御田地場を流通
し、作ものゝ痛、民家のいたみ、人馬の潰死、目も当ら
れぬ事共也、同六日誰か言初めけんや、今日の未の刻に
至なは大津浪と云もの廿丈高く海水溢れ来るとの沙汰専
らなれは、兎角此上ハ山々へ逃て命斗も助らんと言初る
や否や、先祖代々の調度も打捨て年寄子供を肩に扶け、
我もわれもと逃行程となれは、村々の人々も大ツナミと
聞よりはやく取ものも取あへす我先〳〵にとさわき立、
思工夫もなく右往左往に逃行にそ、足よはなるハ倒れは
其上に跡行人ハ積ミ重り、いたやこわやと泣もあり、堰
や溜井に落るもあり、踏にしられて死るもあり、行かゝ
り橋落て渡しかねるに跡ゟ人続き押来る処、水中に落て
流もあり、去ル共命限りに逃行き忽山家に着けれは、父
母よ夫妻よ子供よと呼さけひ尋る形勢は地獄の責を此世
から会見る心地し、哀れなり、尋逢ふたる人々ハ手に手
を取りて悦もあり、知音親疎の隔なくいかな山家の小家
にも廿人三拾人大家には百人斗宛、山の上には人の充さ
る所なし、爰やかしこの木の枝や三杭立て鍋をかけ飯を
かしきて其夜一夜ハ明したり、然れ共別て変もあらされ
は、古郷を慕ひ未明より在所〳〵へ帰りけるに、家ハ土
中に埋れ水中にたほれし[族|ヤカラ]ハ頼なく[社|コソ]見へしとそ、荒
瀬・平田も是に劣らす痛ミけり、又由利郡抔も動り崩家
より出かねるに、水溢れ助け救も不及力見殺し同様の有
さま、咄に聞さへ哀れなり、家も土蔵も水入て飯米或ハ
少々の作徳も泥水込入、其間打捨置候ヘハ、暖水に自然
と腐り不用[方便|テダテ]なきこそ[労|イタハ]しけれ、爰におしきは皇宮山
干満寺ハ出羽国随一之叢林なれは、伽藍も宜しく数多[雲|ウン]
[僧|スイ]も居けるか、四日の夜崩れ潰れ境内の島潟八十八潟九
十九森の内崩れし島もあり埋れし潟も有よし、往古ハ古
人も尋来りて奥州の松島にもおさ〳〵劣らぬと誉眺の詠
歌を吟じられし、古筆則当時之什物と成于今有よし塩越
の入口禿石ゟ珠寺まて潟の内をそふりかけにて通るに足
のぬれさるよし、田川郡ハ少し地震よわきにや民家の痛
も不足なり、然れ共羽黒山・金峰山へ逃行し人々も多く
有よし、夫より災後御検使相済本普請・仮普請勝手次第
に被仰付けるに、諸色の価高直なる事大工ハ言かけ次第
多くハ作料三日壱歩、木梚・塗師・葺師其の通り雇ハ三
百文ゟ四五百文位、平生廿五文の縄百文、搗米壱升四拾
五文ハ八十文、そふり(ぞうり)わらんじ廿五文余ハ皆此類に準し
て哀れなり
遊荒平の三郷地震後検使一々御改見届有て無相違ニ付御
上へ書上候書面之写左之通
遊佐
潰家
一千四百九十三軒 御関所下御役家
内壱軒 大庄屋御役家
内弐軒 廃家
一五百八拾三軒 御関所上下
内弐軒 御役家
一三拾九 潰郷蔵
内三ツ 籾蔵
一拾九 痛郷蔵
内壱ツ 籾蔵
一六拾六 潰土蔵
一五拾 廃土蔵
一百拾弐 潰稲蔵并物置小屋
一弐拾七 痛稲蔵并物置小屋
一四拾四 潰鎮守堂
一五拾三 痛鎮守堂
一百拾人 死人
一七拾五人 怪我人
一百三拾八疋 斃馬
一弐拾九疋 怪我馬

荒瀬
潰家
一九百四拾五軒
内弐軒 大庄屋御役家
一四百三拾八軒 廃家
内壱軒 大庄屋御役家
一弐拾六 潰郷蔵
内三ツ 籾蔵
一弐拾三 痛郷蔵
内三ツ 籾蔵
一拾七 潰土蔵
一六拾弐 廃土蔵
一百弐拾 潰稲蔵并物置小屋
一七拾七 痛稲蔵并物置小屋
一拾九 潰鎮守堂
一三拾 痛鎮守堂
一弐拾六人 死人
一拾五人 怪我人
一九疋 斃馬
一壱疋 怪我馬

平田
一四百七拾壱軒 潰家
内壱軒 大庄屋御役屋
一四百九拾壱軒 廃家
内壱軒 大庄屋御役屋
一壱 潰郷蔵
一弐拾三 痛郷蔵
内五 籾蔵
一五 潰土蔵
一三拾六 廃土蔵
一六拾 潰稲蔵并物置小屋
一百壱 痛稲蔵并物置小屋
一七 潰鎮守堂
一弐拾五 廃鎮守堂
一六人 死人
一弐拾弐人 怪我人
一壱疋 斃馬
一弐疋 怪我馬

遊佐荒瀬平田
一四拾 潰痛寺郷
賢君上にいませハ賢佐下にあらハれ、聖主徳を施し玉え
ハ忠臣国に充ち、去れは災後町々在々も枯果ぬらんと思
の外、町方ハ御町奉行を始め諸役人罷下り、目料并売買
の直段等を御改有て、高直の諸職人商人等を御叱あり、
米ハ町々へ役人を添売座を立て安直段に被為売、あらゆ
る種も常の直段より少々の事ハ苦しからす、諸職人も八
日壱歩と御触被仰出、郷方にハ郷蔵開けて人数にかけて
[夫食|ブゼキ]米を被下置、其外町方在々自普請難叶ものにハ夫々
に御拝借金被仰付、日々御仁恵を行れ難有御触ともあり
て人民を恵み給へは、堯風に沐し舜雨に浴し万民業をた
のしむこと難有けれ、未た半季も過さるに半ハ軒を建な
らべ、豪富ハ土蔵にまても取懸候、去れハ庄内地震の痛
ミ近国に隠なく聞けれは、仙台・越後・秋田の辺よりも
諸職人参りて、傾破の家や土蔵を直す其方便思ひ〳〵の
道具にて、大坂木遣りに越後ふし仙台まのきに秋田能代
ふし酒田踊りの拍子をそろへ、ゑいさらさつさのかけ声
に家も土蔵も身帯(身代)まても何の苦もなく一起し、以前の事
は打忘れ、面白かりし事共也、偖酒田の湊は皆々様も御
存せらるゝ通り、最上・米沢・会津等を引請て、御大名
方江戸御廻しの御米等、最上川に指出し海船へ積うつし
の湊なり、わけて庄内ハ産物多き国なれは、海船数艘着
岸し、入津出帆隙もなく、日和山の夕涼み、今町出町の
大賑ひ、三味線太鼓の音絶へす、芝居相撲の大当り、寔
に浮世と云ツへし
此度庄内の大地震は鳥海山自焼のためにやと諸人の取沙
汰まち〳〵なりといへ共、是等陰陽之事ハ田夫の及ふ事
にあらす、只此書ハ小児等成人の後咄の種にもと存、又
よく〳〵此災有ものと心得なは奢りを止家業をつとめ仏
神正心尊敬いたしなは、天災をもまのかれへけんやと思
ひ、田舎噺と題号し、人の噂を聞書にいたし候得は、虚
説而已多く、又文辞の拙き事田舎たけと御賢慮有て、後
見の御歴々予か誤りを改御添削を希ふ而已
文化元年甲子八月
新堀村 阿部宮治
出典 新収日本地震史料 第4巻
ページ 263
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 山形
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