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項目 内容
ID J1000926
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1802/12/09
和暦 享和二年十一月十五日
綱文 享和二年十一月十五日(一八〇二・一二・九)〔佐渡・越後〕
書名 〔佐渡近世史年表〕
本文
[未校訂]○小木を中心に大地震あり三二八軒を焼く。小木へ米一
五〇石銭三千貫貸付ける。(佐渡年代記)○十一月十五
日大地震、被害一六一か村に及ぶ。倒れた家七三二軒、
傾いたりこわれたりした家一四二三軒、焼けた家三二八
軒、死者十九人、その他山崩れ、谷埋り、水田・道・橋・
池・堤の被害は数えることができず。小木港は数十町干
潟となり・赤泊・沢崎潮退き岩が出て船便を失うという。
○金丸本郷村にこの年十一月十五日に起きた大地震の被
害の記録がある。潰家三十二戸、長屋十五、半潰家十二
戸、他に寺院本堂一、神社拝殿一、酒蔵一。本郷村では
家数過半震潰したので九拾九貫八百四十文の銭を五ケ年
賦で手当として拝借し、家の大小に応じて割賦した。(金
丸村) ○徳和村元組八右衛門は相川二丁目の久次郎と
一緒に目明しといつわり村方へ難題をもちかけたことが
露顕し一代の間長百姓の格を遠慮することで大小百姓中
にわびを入れた。(徳和村) ○十一月十五日四ツ時頃大
地震、特に小木町被害大、八ケ所より出火し小木町残ら
ず焼失し内の澗地形震い上げ潟となる。その処多く田地
となる。金丸・皆川・下村・船代附近も大被害をうける。
(異本年代記) ○田野浦村と江積村が田野浦村入㗴で
の鰯猟について争いをおこし江積が沢崎の御目付に訴え
でた。(江積村) ○和泉四ケ村と中興三ケ村の間に堰水
落しについて争い、旱魃のときは和泉九日・中興一日と
なった。(和泉村) ○井内村で二一町歩にかかる字殿沢
の溜井の修復を地方役所へ願い出た。(井内村後藤家文
書)
(文化七年)
○木野浦村は地震以後の村の窮状を訴えて御手当米の支
給を願つた(木野浦村)
(文化十四年)
○(前略)越国の勘兵衛と言う者、小木町田町浜に地震
によってできた新地二町歩の新開を願い出た(佐渡国略
記)
(嘉永四年)
○享和地震以来徳和・腰細海岸一〇町歩の所が至って地
低となり高波の時たびたび崩れて困ると訴えた(徳和村)
(享保二年)
○今年地震あり夷湊の役宅損傷し建替る
(注、享保二とあるが、ここに掲げる)
出典 新収日本地震史料 第4巻
ページ 180
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 新潟
市区町村 佐渡【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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