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項目 内容
ID J1000910
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1802/12/09
和暦 享和二年十一月十五日
綱文 享和二年十一月十五日(一八〇二・一二・九)〔佐渡・越後〕
書名 〔佐渡小木町史史料集 上〕
本文
[未校訂]小木沖海底地震の様子が佐渡風土記に書かれてい
る。
享和二戌年
大地震之事(佐渡風土記)
夫佐渡の国は北陸の端なれば古より兵火の恐をも知らず
人を悩ます禽獣の住む山もなければ大いなる山崩などい
うことは聞も及ばず殊に四方海近ければ水湛へて人を苦
しむることなく又二十年来この方は一向雪も深からねば
人々悦び鑿井領耕田食しかも享和二戌年は五穀実のりよ
く暖なること冬も如月の如し既に十一月十五日は風波の
音もなく快晴なりしが朝辰の刻と覚しきに大地ことごと
く震い出し山崩れて川を埋み中にも此の小木の津は震強
かりけん両㗴(澗カ)汐百四五十間計りも引取干潟となり神社仏
閣の破却或は石段鳥居碑のたふれ崩るること数ふるにも
のなし殊に世尊院と言う一宇は山崩れの下となり家内や
うやう逃れ出で候程なれば民屋のいたみは其の数を知ら
ず戸も障子も全たからねば水を入したらひもまろび出づ
るに人々これはと驚き己がさまざま走り廻るうちに漸く
震もやみければ病人老人のことこひなどして寺院或は高
き処へ連行き丈夫なる男たりしは其の家々に残り火のも
となどを□たくして居りし内に海も元の如く汐来り其の
内わづかなる震れ両度ありければ是を世に言うゆり戻し
なぞらへ漸く人心地となりければ先のほど焼出したる火
を消し殊に此日は下元の日なれば祝言などする人も多か
りけるが午の下りばかりに又震ひ出し朝の震きに十も合
せたらん程なれば何とわきまへたる事もなく只天柱くじ
け地もさけてあわれ此の世界金輪際へも陥らんと中々泣
きもやらず子は親を見失ひ妻は夫の行衛を知らず上を下
へと逃げ廻り或は潰屋の下又は倒るる壁の下となり叫ぶ
声も天地の鳴動屋根より石の落る音に紛れ誰知る者もな
かりし内又海は二三百間も干潟となりければいづれより
言ひ出しけん津波津波と呼ばはりけるに是は如何なる一
業所感の者共のかかる浮世に生れあひしことよとて家財
雑具はさておきわらじもなくかちはだし又は赤はだかに
なりて潰屋の棟或は御番所の屋根などをこへ逃迷ひ或は
城山安隆寺神明光善寺庵室のあたりへ逃迷ひける内諸方
より火もえ出で黒煙はや□をまとい炎天をこがしあわや
と見れども誰一人打消す者なくいかに回禄溟い神の怒り
にたまふにやとつなみの恐れに又出火なりしに親□と悲
みを同じうせざれば心もそ□□なり我家のもゆるも目に
見るのみにしておしからず寝もやらねば夢もなく只夜の
□へるを待ち明せしが既に十六日の未明より親子は行方
を尋ね歩き行又は町内を見るに上は泉財川より下は御番
所に至るまで一軒も残らず灰葬となりければ何にても形
あるものもなく我家とおぼしきも知れざれば川を当井戸
を当漸く尋ねあたり只十方にくれける計り成しか早くも
此事近村へ聞へけるにや小比叡山始め其の外そのゆかり
ゆかりより飯粥など持ち送りけれ共たとひ其の有所にて
も知れざればここかしこと尋ねけるうち貴賤の分ちなく
知るも知らぬも取かすり食物をもらひ誠に餓鬼道の苦し
みも是にしかんと思ひしが斯くて此の事注進有けば十八
日に至り御検使御出焼失家潰屋御見分の上死人は宗門帳
御持参にて御糺の上夫食米並に小屋掛料として町中へ三
千貫文御貸付被下候に付漸く餓を凌ぎ小屋掛或は在々に
好身有る者は其のゆかりゆかりへ尋ね行く又は旦那寺へ
引込一冬致せし上寒中とて焼地の疫病におかされ悩みす
る者多かりしが小野秀庵に被仰候御施薬等被下置しによ
り難有くもかん難を凌ぎあくれば享和四の春にもなれば
諸国此事聞えしにや累年とは違ひ廻船入津も少く誠に此
の小木港と申すは遠国に並びなき掛り㗴故新町にねがひ
し所なれば他村より家数も多けれ共田畑等一向少く只諸
廻船の交易にて渡世致せし処なるに入船無之ては如何し
て助命致さんやと此由願ひければ早速両御船手役様㗴の
内委敷御見分有て御入用高壱万五千文を仰せ付亥子両年
に両㗴不残結構に御普請出来して諸廻船入津も元の如く
繁栄の地と成ければ其の間両年の内に民家も不残家作等
出来いたし皆人万歳を悦びける
小木町検使検分の際の地震の損害
一潰屋数 四十四軒
一焼失家屋 二百三軒
一破損家 二十軒
一死人 十九人
享和三年(一八〇三年)
享和二年地震における徳行表彰があった。
享和三亥年二月二十七日従相川御役所御差紙到来(中略)
二十九日四時罷出候処御書院江被召出請役人中列座御奉
行鈴木新吉殿直々被仰渡候書付之写也
被仰渡後江戸表江之代僧を以御老中方江之御礼等之儀御
伺之上御奉行御玄関へ御組頭衆御目付衆へ御礼廻り相済
候間翌晦日帰山候也
去十一月中地震之砌聊之心配仕候所当国於御奉行所結構
之蒙仰冥加至極難有仕合奉謝候依之右御礼奉申上候
佐渡国羽茂郡
小比叡山蓮華峰寺所労に付
代僧 真蔵院
(蓮華峰寺文書)
見崎野御見分がおこなわれた。
記置一札之事
此度去廿ケ年以前享和二年戌年霜月十五日大地震に干上
り候小木町おせき浜そとがけいちぶり崎右の場所新開田
地御検地役として御組頭様御広間役千賀多兵衛地方掛り
多田市郎治此御三人文政八酉ノ三月上旬に右当町江御出
役被遊候て同年四月二日に見崎野御見分と申木野浦より
堂釜村迄〆拾六ケ村三役人之内長達壱人指添明四日五ツ
時拾三平江相詰可申と御廻文相通候間是は何用成る御用
も有之候哉と皆々拾六ケ村役目之物共打揃拾三平之当町
与右衛門地蔵と申所に差扣江居たる則右御役人此所之壱
対松之木預ケ目床机御腰を掛け四方山を御見分被遊扨御
組頭様被仰候は是が拾六ケ村之入合之場所成かと仰御座
候へ共辺鄙之者共之事なれば御そば近く立寄る事も恐れ
多く思ひ堂釜村より強清水村迄は誰れ有らて一人[抽|ちゆう]て
もの一言いふべき人もなし且其事而已にして居たりたれ
は早御上は御出達なさけなやせめてにや我々村方之野通
の思付之事を申迄と崎江行ぬけ井坪村大浦村山境成る弥
太郎平江罷越すでに御上も御出なれば是より大浦村野山
に御座候則是成る塚は井坪村と境成りと申上たれば千賀
多兵衛様被仰候は何に是は大浦村の地面成か先そう申し
ても拾六ケ村之入会さ(ママ)と申して勝ツて聞入不申扨其所を
通り同大浦村之野山大小塚之平を過ぎ候とき御広間役様
之思召に此塚はいかなる塚やと御とい被遊候へは本小木
村仁左衛門と申者申たるは此塚はさして名も無き塚と申
候故扨々過言なる申分かな拙者共野山之内之事を物知り
顔なる云分と拙者共胸中思ひ候間後腰ながら此塚は大小
塚とうれん塚と申塚に御座候と申上候夫より池野平村江
罷越久右衛門方江中飯旅宿夫より宿根木村江打立候や池
野平方後同村与左衛門麦干場有り此所より宿根木江越通
有り則此通より右御役人様方宿根木江相越申候猶又此麦
干場にて強清水村より堂釜村迄の名主組頭長百姓共御暇
乞申上たれは千賀様之思召には是より罷返し帰し用儀も
なし委細之儀は野元名主申置と仰付相越候成(也)り扨其後木
野浦村名主小木町名主小木村名主野元蔵組として三ケ村
名主より以手紙を申遣し候は此野山境付等改書付古書之
写を以印形相取候間村々三役人印形持参にて同月四日右
役人様方御出立無御座内に早々御出可被成と右手紙を相
廻し候間同月四日日限之通り早朝に罷越書面之趣承り候

先第一番に字三崎野秣場一ケ所
立平場二千五百拾四間
横平場三百三間是拾六ケ村入会
此反別二百五十三町九反一畝十二歩
此所江十三間三畝十歩 池野平居村
右之通り野山の間入会と申此書面に三役人印形致べくと
木野浦村名主申候故皆々村々印形仕候也扨て大浦村印形
致せと申候間連印致すは[最|もつとも]易き事に御座候へ共何連之
村の何と云所より何れの何迄と慥成る古書有之候はは随
分調印仕候へ共古書を拝見致させくれ候へと申せば別段
古書と申も無之御上之御留にかやうに有之と申又変地以
来相出来候と申何様慥成る事も無之調印之儀は辞退申候
へば木野浦村名主申候儀は大浦村名主殿別して手を取調
印致させるにも及申さす候へは皆々拾五ケ村迄は先規之
通りと申候へ者調印仕に其村方斗り落印候においては其
趣御上へ申御上之御利害に仕べきと申候間至て困窮之村
方之事に御座候へば公事出入に成りては甚た難儀に候間
無是非調印は仕候へ共若此後日至り公事出入に及人拙者
村方に出来候はは右調印は無印形と思召御上にても御思
召格別御勘弁之御利害奉願上候為後日之に相記置候者也
文政八酉四月日
羽茂郡大浦村
名主 権左衛門印
組頭 四郎左衛門印
百姓代 作左衛門印
長百姓 治郎左衛門印
〃 又左衛門印
〃 主三郎印
長百姓 甚右衛門印
〃 治郎右衛門印
〃 治右衛門 印
(大浦 金子治郎右衛門家文書)
出典 新収日本地震史料 第4巻
ページ 163
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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