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項目 内容
ID J1000908
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1802/12/09
和暦 享和二年十一月十五日
綱文 享和二年十一月十五日(一八〇二・一二・九)〔佐渡・越後〕
書名 〔佐渡小木町史 上〕
本文
[未校訂]小木湊大地震の被害
 享和二年(一八〇二)の冬、十一月十五日の五ツ時(午
前八時)、小木町を中心に大地震が起きました。その地震
は、四十一年前の九月十五日に起きた地震と同じくらい
規模の大きいものでした。四十一年前の地震は、午前十
時とお昼に起きましたが、今度は朝でした。
 さて、今度の地震は、第一番に小木町の近辺、第二に
金丸方面、第三に新町、河原田、そのほかの村をいため
ました。(蓙屋史料)この時の被害は全体で百六十一か村
に及び、倒れた家が七百三十二軒、傾いたりこわれたり
した家が千四百二十三軒、死者が十九人でした。そのほ
か、山くずれ、谷埋まり、水田、道、橋、池、堤の被害
は数えることができませんでした。小木港は数十町にわ
たって干潟となり、赤泊や沢崎では、潮が退いて岩が出
て船便が出なくなったと記録されています。金丸本郷村
では、潰家が三十二戸、潰長屋が十五軒、半潰家十二戸
とあります。(金丸区有文書)また、皆川村、下村、船代
村なども大被害をうけました。(異本年代記)
 こうしてみると、小木半島を中心として起きた地震が、
国仲平野の低地にも大被害を与えている様子がわかりま
す。地震は砂の積もった場所では大きい被害を与えるの
です。さて、国仲北側通り、外海府、内海府、相川辺は
格別の大破がなかったのですが、新町から沢崎の鼻、そ
こから前浜へ回って赤泊までの間は、十間から六、七十
間も浜が沖へすすみ出てしまいました。ところが、徳和
村から岩首村の方までは、逆に満潮時の場所まで水位が
上ってしまい、人びとに無常を感じさせました。佐渡が
いびつになったのです。上がったところも沈んだところ
も、人びとは不安におののきました。
 そののちも地震が続きます。十一月十七日には午後六
時に二回、十八日に夜一回、十二月一日の夜、それに二
日の朝十時、十五日の夕方六時に起きました。翌年には
いっては、正月の二日、三日の夜、六日の夜八時、その
あとは十七日の昼四時に起きました。この地震は特別大
きかったようです。以下記録にあるところを載せておき
ましょう。
二月四日 四ツ時、八ツ時
二月十三日 夜五ツ時
二月十八日 夜
二月十九日 昼
二月二十二日 夜半
二月二十五日 昼
二月二十八日 朝
三月二日 昼、明六ツ時
三月二十三日 昼、夜
四月十五日 一ツ
四月十六日 一ツ
四月十七日 一ツ
四月二十一日 一ツ 暮六ツ 二ツ
四月二十四日 朝、暮六ツ
五月より七月まで書記忘失
八月二日 五ツ時大震
九、十の両月おだやか
十一月七日 四ツ時
十一月八日 夜九ツ
十一月九日 夜半
十一月十日 朝五ツ時
十一月十四日 数度、九ツ時二度は大
 こうして、とうとう一年がたちます。そんな具合でし
たから、どこからともなく明日の一周年は大地震がくる
といううわさが広まって、人びとは不安におびえており
ました。しかし、当日は多少のゆれはありましたが、大
地震とはならず、人びとはみんなほっとしたものでした。
 大地震の被害は小木が一番大きかったのです。ですか
ら、地震のあと相川から御検使がやってまいりました。
出かけて来た人は、江戸から来ていた広間役(奉行につ
ぐ重役)関根甚三郎、御目付役長嶋小右衛門、地方掛り
藤波次郎兵衛、町同心野沢隼人の四人でした。そのとき
彼らが報告した史料を見ますと、(蓙屋史料)
潰屋敷数 四十四軒
破損家 二十軒
焼失家屋 二百三軒
死人 十九人
とあります。
 お寺では、安隆寺の庫裏がつぶれ建て替えられました。
きさき
光善寺、神明、后、世尊院も建て替えとなったのです。
それから阿弥陀院、照覚寺は焼けてしまって、やはり建
て替えとなりました。ところで、焼けた町家は文化二年
(一八〇五)迄の間におおかた復興しているようです。
そして、町中の相談で町の道幅を拡げることになりまし
た。山方に二尺、浜方では三尺引っ込めて、道路の幅を
今までより五尺(約一・五メートル)拡げて大通りにし
ました。またこのとき、堀り切りが埋まってしまいまし
た。そこで城の越にありました御役家を立町へ移すこと
になりました。御船蔵屋根と長屋を建て替えることとな
り、畠山土佐は長屋と屋根の建て替えをしました。そう
してみると、今の畠山の家はもと長屋の建っていた場所
ということになり、昔の船蔵も畠山の家に接して建って
いたことになります。
 この大地震によって、小木湊がどんなふうに変わった
かを当時の記録によって、もう少し詳しく見ておくこと
にしましょう。まず尾関より下、[后|きさき]明神の下まで、もと
は海中だったところが、およそ六十七間ばかりにわたっ
て干潟になりました。城山の押廻し二十間、三十間、十
間ばかりが干潟になりました。外の澗から小比叡川の川
尻までのところにも干潟ができました。
 三嶋、二子(中島)、船嶋(ムク島)いずれも六~七尺
ばかり震い上がりました。それから、元尾関より人沖ま
でのなぎさで歩けなかった場所が、三十間ばかりも干潟
になってしまいました。
 こうしてみると、享和の地震が小木町にいかに大きな
影響を与えたかがわかります。
小木湊大普請
 享和の大地震のあと、佐渡奉行所は地震災害を復旧す
るためにいろいろな手立てを講じます。小木町で焼けた
家を復興するために、御拝借銭三千貫文を貸し付けまし
た。町家持ち一軒に五貫文、よそへ貸屋をしている家屋
一軒について二貫五百文を貸したとあります。五貫文と
いうお金がどれくらいの価値を持つものか的確にあらわ
すことはできませんが、これを金であらわすと、〇・七
[両|りよう]、米であらわすと約一石、日当であらわすと当時で五
十日分くらいになりました。
 記録でみますと、この地震の復旧では、赤泊の澗の普
請の入用として銭千六百七十貫文をかけていますし、沢
崎の取澗普請には入用高銭三百十貫文をかけています。
もちろん、小木湊の普請はそれは大変な経費を要しまし
た。ここでは、そのときの普請帳からその内容を記すこ
とにしました。
マスガタ 二十間四方、深さ平均六尺五寸(人
びとはこれを「たまり」とよびまし
た)
はしけ通り 長さ二十間、幅五間、深さ平均五
尺。
はしけ入口 長さ十五間、幅十間、水下三尺さ
らい、左右砂除石積。
右の方砂除石積元積り五十間
 総長さ五十間半、内訳は[築|つき]はじめより波打ちぎわまで
二十三間、それより[築留|つきどめ]まで三十二間半。幅は築はじめ
一間、波打ちぎわまで平均三間、高さ三尺。
 左の方砂除石積元積り三十三間
 総長さ三十二間半、内訳は築はじめより波打ちぎわま
で十九間半、それより築留まで三十二間半。
 ほかに、右側石積み築留より沖へ石積み長さ七間、幅
二間に高さ三尺、これは[艀|はしけ]入口先左右砂払。
 はしけ通り 長さ二十間、幅五間、深さ平均四尺六寸。
 はしけ入口 長さ十五間、幅十間、水下三尺はしけ入
口外堀割り、長さ七間、幅五尺。
右十四間幅平均五尺、高さ平均二尺五寸、左長さ二十四
間半、高さ、幅は同じ。
下の御番所下御役家のかどより沖の方遠浅まで棚矢
来、長さ十五間。
世に『三味線堀』といわれるものは、このとき出来た
ものです。
出典 新収日本地震史料 第4巻
ページ 159
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 新潟
市区町村 小木【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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