[未校訂](表紙)「享和二年 田野浦村
地震大辺之事
戌霜月十五日 」
戌霜月十六日ニ御神明講に仁左衛門重吉あたり十五日
ニ口持致候間各々様方ヲよび酒をつきのむ時大なへゆ
りはしめ其酒を置にげ申候其酒を皆ゆりこぼし家之前
へはだしではしりでれバ人をゆりたをし又をきれバゆ
りたをし十八日ニ御神明講致
享和二年みづのへ戌霜月十五日ニおいて日和宜敷御座而
(候)風ハ内相ニ吹十五日の朝之四つ時ニ壱ばんのなへ湯(ゆ)りは
じめ二番なへは少しちふさし三番の地震はひるの九つ時
ニ湯(ゆ)り藤ふ(ママ)とし其なへ湯(ゆ)るより直ニ海の塩ハ五六尺斗お
きへ引取もとのいそべより拾弐三間斗海が浜ニ成つなみ
がくると被申候得共つなみハ差不申夫より前ニハ塩の月
ひ有ひらせより指塩が一ばんのなへより三番のなヘニ
法房(方々)の家をゆりつぶし山をゆりこわし十五日の晩ハ川よ
り西の人ハ立野坂七兵衛殿小麦畑ニをり其下のにを取場
ニをり同御寺ニもおり河より東の人ハ老共子供ハ御宮へ
登り家にをる人ハ門をおよほり様々村の内ニ三四軒斗火
をたきをり暮し同十六日の晩ハ大雨ふり十七日十八日雪
ふり殊の外大風吹難儀致廿日廿一日が大切と皆御営有之
俵物遣ひ道具御宮へおい揚げ寺へはこび安兵衛殿江託十
六日より廿一日迄置廿一日の朝家へ取入廿一日の晩より
家々ニ火を立おりくらし十五日より少しのなヘハ毎日毎
晩湯(ゆ)り皆不残村々山ニ小屋を掛ケをり赤泊つなみ指十五
日の大地震に小木町を湯(ゆ)りつぶし立町田町残り御公儀様
の郷蔵残り百姓共番ニ余本町ハ火お(を)あまし出火ニをよび
難儀いたし十一月十五日より閏正月迄ゆるり(いろり)のはたに水
おそばめゆるとハ火をけす様ニして暮シ段々なヘニ村ゆ
り有沢根之方ハ塩常ニ不替正月二日ニ余程のなへゆり同
六日の晩ニ余程なへ湯(ゆ)り少しのなヘハ度々前(毎)日前(毎)晩ゆ
り大な江ニ法房(方々)のいへお(を)ゆりかたけ道ニひゞが入山ニひ
びが入畑のいたみも有之其時かしまの神様の御福(ママ)両有之
と被申毎年十一月十五日を鹿嶋の神様の御ゑん日として
御酒お立やすみ御真言をくり申候と大願を掛ケ申候あた
りのいたみ江積ハ家の後の山お(を)あんじ田野浦へ馬をいこ
し江積のせどニひびが入長吉市重郎與次兵衛長三郎がせ
と田野浦重左衛門おきのさきつへ重吉下山つへ木流与兵
衛ほし草場つへ伊兵衛畑けのくろつへ田野浦の立岩と申
岩有候得共其なヘニいたみ申候小木町ニハ人の痛衆三十
人斗りいたみ有之海之塩の引様ハ先少しのとこが七八十
間より百門(ママ・間カ)のよもおきへ海が浜ニ成小木の浜大石浜地田
の間百五十間より弐百間もをき江塩引取申候大石の三十
三間蔵お湯(ゆ)りつぶし冬の間ニ立手申候正月廿七日の晩ニ
ゆり閏正月十九日ニゆり二月六日ゆり同八日ニゆり二月
十三日の晩ニ余程のなへゆりなヘハ毎晩毎日度々ゆり同
廿八日ニゆりなヘハをもに南の方からゆり西をきの方か
らもゆり三月二十一日ニ湯(ゆ)り三月二日ニゆり戌霜月十五
日よりゆるとハ御ねんぶつを申戌十一月十五日の大なへ
ニ板屋のやねをゆりはくり石を湯(ゆ)りをとしゆる間はいつ
でもゆす〳〵と心がいたし家の内がいつでもゆるぐ様ニ
思ひしをの引様知(地カ)先のはなの方より下の塩壱尺斗り引渋
手より八幡の方ハ塩常ニ不替三月四日ニゆり六日ニゆり
見崎之間より赤泊迄海を湯(ゆ)り揚ゲ申候而塩か引三月七日
ニ余程のなへゆり同九日ニ同所同十三日ニもゆり戌霜月
廿日廿一日が大切と被申夫より廿七日廿八日が大切と申
候二月十五日が大事と申し又三月十五日が大切と申候小
比叡山大門より上が大いたみ小比元(えカ)山くりを立大門より
上ハ不残湯(ゆ)りつぶし見崎ハ宿根木小藤田がいたみ三月十
八日の晩ニゆり同廿三日朝ゆり亥四月四日ニゆり八
日湯(ゆ)り同十日ゆり金北山之山下ハしをも常ニ不替同十五
日ニゆり十八日ニ同所廿一日ニ余程のなへゆり五月も
度々ゆり其節中ぼん下ぼんの余の切替と御思召有之申候
戌霜月十五日より□(いカ)らいもすきものうゆり其のち(後)はなり
が付てゆり村の様子白木の物(者)ハ池野平へ登り江積の物(者)ハ
宮へ登り木流し人も宮へ登り深浦の物(者)ハ犬神へ行村々山
ニ小屋を立をり羽茂知物のさいもつなみがくると被申皆
何方共ニ津浪を安事家のまヘニ船をつなぎ上口をふさぎ
石がきをつやし浜ニひびが入寺の前ニ江積田野浦の馬を
つなぎ村の内ニ仁左衛門方ニ火をたき皆より(害)孫左衛門重
吉火をたき十六日の晩から平左衛門火をたき十八日より
吉三郎火をたきをりくらし小木湊亥五月十八日より掘始
人足遣ひ六月十九日より人足拾弐人宛五日遣ひ又七月朔
日より同五日迄四十人遣ひ六月十九日より廿三日迄六十
人使ひ人足前ハ相渡七月朔日より五日ハ八人御公儀様よ
り御出し賃銭ハ百弐拾四文宛御出し被遊渡ハ弐百五十文
宛ニ相渡申候大地震の時ハそくからどべを吹出し畑けの
麦うねをゆりつぶしはかわらの仏様をゆりたをし御寺神
仏様もてき御寺の坊様ハ観音様ヲかゝへ立野坂江登り十
五日のなヘニ畑の土をゆりかため其のちの年ハ海にかひ
りがなき海の前のいろにいもりがをよぎ戌霜月十五日よ
り四五日ハ毎日毎晩はばき(脛巾)ヲあて草鞋はき暮し六月廿九
日のひる余程のなへゆり七月六日ニ同所なへ余程ふとし
同九日ニ同所十一月十六日より名主所之書物ニ昼夜ニ番
ヲ付みつのへ(壬)戌年より四百年以前崎ニこのよの事があつ
たと被申候小木湊掘人足拾人宛亥七月十九日より廿三日
迄五日掛り同三日渡し二日勤六月廿九日のなへ余程ふと
し亀之脇へ少し津浪指申候七月廿五日のひるよほどのな
へゆり八月三日ひる前に同所同五日ニ同所八月六日より
五日の間人足拾人宛掛り其節御江戸表より銭都合壱万七
千貫□たといふ御うわさ有之赤泊㗴を掘り人足遣ひ可申
候御公儀様より出銭壱人ニ付海人足ハ百四拾八文岡人
足ハ百弐拾四文ニ相究り亥八月十九日より廿四日迄十人
宛使ひ四人宛十日つかい亥八月廿九日ニ天文方の役人三
人廻り縄を致申候
九月朔日ニなへ二つゆり九月廿一日ニ同所十月朔日の晩
ニ同所同三日ニゆり亥霜月六日の晩ニゆり同七日同所亥
十一月十四日のひる余程のなへ二つゆり其地震ニまこと
におどろき入十五日の一生(年)季ヲ殊之外安事同十四日の晩
より十五日迄喜(祈)念御祈禱いたし申候十五日を相のけ十二
月十三日ニゆり海之様子ハ地震より前ハながてのとうし
猟船ニ四人乗りて二丁櫓ニかいを付通り候得共其なゑよ
り三つのとうしあせ申候其地震之節ハ海の塩か引皆いろ
がほせ候而小魚沢山ひらひ申候前度ハ海のいろニあまも
と申ものがはえ候得共其もは無御座候其もをとき前ハ麦
のこやしにいたし申候其なゑよりいろがほせ麦ニ掛け不
申候其な江より前ハ浪が揚り石がきをいため家の前にな
みがあがり其なへよりこのかた浪ハ揚り不申候沢崎湊間(㗴カ)
ぶしんいたし御多屋のいたみも有之亥六月八日ニ御奉行
鈴木新吉様御江戸へ御出国之節沢崎ニ御陣屋有之候時地
震故水がきれ申候深浦犬神より人足ニ而水を舟ニ積参り
可申候大なへより田地之水がきれ水口替所々より田地が
畑ニ成申候子正月二日ニゆり同四日ニ同所同五日の晩ニ
同所六日ニもゆり九日ニ三つ湯(ゆ)り同廿五日ニ同所同廿六
日ニ同所廿九日ニ同所毎日同所子二月二日ニ湯(ゆ)り小木之
痛法房(方々)の痛ニ付喰(職)人の賃〓(銭)高直ニ相成申候前ハ六拾五文
此間ハ百文より七拾八文八拾文ニ相成申候所々より亥年
より鹿嶋の神様之御堂ヲ立申候子二月廿七日の八つ時地
震一つゆり殊之外ふとし文化元年子四月十六日より小木
湊三味泉(線)堀人足三人宛十六日より廿日迄五日懸り子六月
四日の晩の四つ時四つ湯(ゆ)り壱つはふとし家の前へ出てさ
わぎ同八日の晩ニも四つゆり同二十二日のひるゆり子十
一月廿六日同所丑正月朔日同所子六月四日の晩のなヘニ
他国ハ羽前庄内秋田大痛夫より前ハ佐渡ばかり其後度々
なヘハ湯(ゆ)り申候
常陸国鹿嶋郡鹿嶋大明神御円(縁)日六日
ゆるぐともよもやぬけまいかの(ママ)め石
かしまの神のあらんかぎりハ
三尺物のこやし米分有之候ものをゆりこも(ぼ)し一時も
ゆす〳〵といたし