[未校訂]寛政四壬子年十二月二十八日大震(津軽秘鑑)とあり「遠
眼鏡」によると「十二月二十八日暖気にて天気もよく雪
も解け流れしに昼八時過ぎに大地震」とある西浜は殊に
損害甚しく
鰺ケ沢町
一丸潰 弐拾参軒 一半潰家 五十三軒
一痛家 五拾七軒 一小見せ 六軒
一潰蔵 八ケ所 一痛蔵 弐ケ所
一漁船 五艘皆破皆船(ママ) 一同漁船 拾艘痛損
一浜の御蔵四ケ所之内壱ケ所痛
一沢の御蔵弐ケ所痛損一御仮屋御蔵壱ケ所山崩れ痛損
御仮屋、勤番所並に御蔵長屋は破損し住居出来難き程
であつた。
舞戸村
一丸潰家 拾弐軒
一半潰家 四拾五軒
一痛土蔵 八ケ所
一潰土蔵 壱ケ所
天文台発行理科年表には
「鰺ケ沢地震潰家一六四、死者一二」とあり前述の損害
家数より三十一軒多く殊に死者のありし事は当地方の記
録には見えぬ。
此時の地震は昼間でその上年末であつたから案外な所に
悲喜いろいろの迷惑をかけたらしい。弘前では洗湯に入
りし女中みな丸裸にて表へ出て又借銭取は地震に驚き催
促もせずに逃げ去りたる故、一寸斎という俳人の狂句に
「催促も地震と引て御歳暮万歳楽と祝ふ借主」(遠眼鏡)
然るに此時の震災は西浜に強く震源地は日本海にあつた
らしく「俗説選拾遺」に
「大戸瀬小戸瀬は十二月廿八日大地震の時海面百間亦五
十間と汐引き、今にその出汐なきゆえ干潟となりて其の
景色筆にも尽されず云々
去る子年の地震にて深浦街道干潟となりて今の街道はむ
かしの海中になり云々」。西北大鑑には
「西郡大戸瀬村を中心として激震が起つた。震源地の一
部は海底にあつたと見えて小津浪を伴い数百軒の人家を
圧倒し、死者十二人出した」とある。
此死者数は前記理科年表にある鰺ケ沢の死者と同数であ
るが、或は何れかの誤りかとも思うが、鰺ケ沢にも津浪
や死人のあつた事は古老の伝説として残つており年号も
季節も分らぬが次の如く云われている。
鰺ケ沢に地震のあつた時津浪がおこり初は海水が遠く沖
の方に引いたので町民や馬方などは争うて遠浅の洲に下
りたち、貝や魚を拾うていたが間もなく大浪は遙か沖か
ら襲いかゝり逃げおくれた人々は多く溺死した。家に居
たもので家の門戸窓など明放して逃げた家は無事であつ
たが悉く閉ぢて逃げた家は退水と共にさらわれ又此時の
浪は二丁目神明宮下の鳥居まで上つたそうである。
兎に角寛政の地震に津浪を伴うた事は事実で前記鰺ケ沢
被害の中、漁船の損害かれこれ拾五艘あるのを見ても推
しはかられる。然し大なる津浪ではなかつたろう。