[未校訂](荒瀬・横峰・落合)
九 部落の田畑
(前略)水田開拓については谷沿の地から始めたもので
あろう。南地用水係で七反歩余、大古屋用水係で七反歩
余りの水田があり、古横峰新用水と称する杉地谷から四
千米余りの用水開さくを始めたが、中山部落から物入り
がはいり、中止している。
中山舟井義明氏蔵の古文書に次の如き記録がある。「杉地
谷より吉ヶ平までの間、関床より立石屋敷まで三八二間
荒堀りだけで一時中止しているうちに、横峰名一致して
地震のため水の尾が違い等水田三町歩余り旱ばつに及ぶ
とかの願いにて見請たる故向多人数なり、我方は少数な
り且又田地は大いに少なく、故障申し出るも勝利の程無
く覚束是迄の人工費用損とし遺憾ながら止めた訳であり
ます。」
傍示村組頭 安部伊之治
庄屋 瀬津村兼帯 覚之助
当村五人組 丹兵衛
寛政十二申正月九日
当時の古文書によれば、寛政十二年頃には三町余りの
水田が出来ていたものと考えられる。其後用水の開さく
を続け、安政二年完成し用水供養碑が大師の森にあり。
後水田八町歩余りとなり四千米の水路の維持管理と補修
に部落総出役年間二百の人工の経費を要し、昭和三十三
年補助工事にて二千米をセメント溝に改修し現在に至っ
ている。