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項目 内容
ID J1000020
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1789/05/11
和暦 寛政元年四月十七日
綱文 寛政元年四月十七日(一七八九・五・一一)〔阿波・土佐〕鳥取・岡山・池田・大阪・山口
書名 〔上勝町部落小史〕○徳島県
本文
[未校訂](荒瀬・横峰・落合)
九 部落の田畑
(前略)水田開拓については谷沿の地から始めたもので
あろう。南地用水係で七反歩余、大古屋用水係で七反歩
余りの水田があり、古横峰新用水と称する杉地谷から四
千米余りの用水開さくを始めたが、中山部落から物入り
がはいり、中止している。
中山舟井義明氏蔵の古文書に次の如き記録がある。「杉地
谷より吉ヶ平までの間、関床より立石屋敷まで三八二間
荒堀りだけで一時中止しているうちに、横峰名一致して
地震のため水の尾が違い等水田三町歩余り旱ばつに及ぶ
とかの願いにて見請たる故向多人数なり、我方は少数な
り且又田地は大いに少なく、故障申し出るも勝利の程無
く覚束是迄の人工費用損とし遺憾ながら止めた訳であり
ます。」
傍示村組頭 安部伊之治
庄屋 瀬津村兼帯 覚之助
当村五人組 丹兵衛
寛政十二申正月九日
当時の古文書によれば、寛政十二年頃には三町余りの
水田が出来ていたものと考えられる。其後用水の開さく
を続け、安政二年完成し用水供養碑が大師の森にあり。
後水田八町歩余りとなり四千米の水路の維持管理と補修
に部落総出役年間二百の人工の経費を要し、昭和三十三
年補助工事にて二千米をセメント溝に改修し現在に至っ
ている。
出典 新収日本地震史料 第4巻
ページ 3
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 徳島
市区町村 上勝【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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