[未校訂] 大分県災害誌に載っている幾多の地震の中で、佐伯地方
で被害の最もひどかったのは、宝永四年の大地震とそれに
伴って起った大津波である。時は宝永四年(一七〇七)十
月四日、佐伯藩は六代毛利高慶の治政下で、震源地は東海
沖、M(マグニチュード)八・四といわれる強震で、鶴藩
略史には次のように記している。
十月四日佐伯の地大震あり、潰倒四百八十六戸なり。
洪波の高さ殆んど一丈、市街を衝いて来る。云々
とまず記し、津波が城下町を数度にわたって襲い、大変な
被害となった。
そこで大急ぎで津波防止の堤防工事を起こし、藩主親し
く巡視督励しているが、その詳細は後の項で述べよう。地
震そのものもはげしく恐ろしかったが、高潮によって死者
二十二人を出している。堤防は[枡|ます]形(現在の郵便局付近)か
ら、蟹田(五所明神前[下手|しもて]石橋付近)を結ぶ線で、この時
植えられた松並木の風景は、今は写真で偲ぶ外はなく、七
十歳前後の佐伯人なら記憶があるはずである。まさに佐伯
市の歴史に残る地震と大津波であった。
(中略)
宝永の大地震
宝永四年(一七〇七)十月四日から数日にわたって佐伯
地方に大地震があり、倒壊家屋四百八十六戸、田畑の損毛
二千四百六十四石余、城下の堤防崩壊百五十九間余、石垣
百二十九間、新地堤防五十七町余、塩浜堤防百五十町、在
浦山崩れ大小三十二カ所、城下に押込みし波の高さ九尺五
寸余、死者二十二人、牛馬流失二十六疋、船破損十二艘と
記録されている。(この年十一月、富士山大噴火、宝永山
できる)
宝永四年十月四日、午の下刻少々の地震度々ありて、
高潮城下へ押入り、家中町々の者、男女ともに山に登り
候様申付る、城内へも無遠慮なれば、何れへも勝手次第
に逃げさしむ。城下に潮さしこみ候事昼夜七度なり。五
日は昨日地震高潮につき、領分中に申付け祈禱せしむ。
臼坪大明神においても祈禱す。六日も昨日より今日に至
り、少々づゝ絶えず地震し、潮家中の家に満込む、百名
余の百姓共塩を願出候につき二人に一俵を渡す。七日今
日より地震にて崩れたる城下の所々を普請申付く。八日
地震にて難義におよび候坊主両人、並に内町の者六十四
人、社人一人、山伏両人借米願出候ところ願の通り申付
く、塩五百俵買上げ総体に与へ候様申付けらる。(温故
知新録)
この地震で高潮がしばしば城下に押し寄せ、被害が大き
かったので、藩ではさっそくこうした災害に備える堤防築
造に着手、藩主高定が新しく工事を監視した。
因って大いに堤防を中村外に起し、枡形より蟹田に達す。
公親しく監視し、給人古賀半左衛門、坂本瀬兵衛、浅井
平次右衛門、間作平、秋山庄兵衛、高瀬善太夫を以て奉
行となし、各々部署を分ち、役夫を督董し、日ならずし
て成る。(鶴藩略史)
この堤防築造(惣土手普請)は同年十月二十一日に始めら
れ、十二月二十四日に完工したもので、総間数三十七町四
十九間二尺のうち新規築堤が十一町五十三間半、役夫総数
三万四千七百九十三人を使役したと記されている。