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項目 内容
ID J0900637
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔土佐古今の地震〕○高知県▽「土佐史談会」
本文
[未校訂]稲尾氏記録に曰く大地震の年は随分暖なる冬にて十一月十
二月迄は衣類も袷一つかたびら一つにても暮す事年明けて
も寒不参右の砂(大地震後二月目程余震已まざる中に富
士山破裂し所謂る宝永山を生ずこれは宝永山の灰の事にて
同本中前段の所に其記事見ゆ)十一月二十六日より降り十
二月三日迄降り平地に五六寸程積上る
又曰く宝永四年九月十月十一月迄長日でり十二月八日の夜
雪降り高さ二尺程積上る尤三日降り其内大寒限なし右地震
三年ばかり少々づゝこゆるなり
又曰く大地震明る二月迄ゆりやまず初の如く強くはなし大
筒など打つ如し日々五度六度夜も同じ也大地鳴る度々に地
震するなり
又曰く明る五年十月迄地震折々尤も鳴る事はたへず鳴れど
も右度々に地震は無之
又曰く右大地震より井戸泉水迄もきれ人々難義する事なり
明る二月中旬頃より大雨降り水出で人々喜び申すなり
羽根浦八幡宮板書に曰く未刻俄に磯より沖へ三丁余も潮干
其より大潮入る財宝尽く流失不達者成者或山遠き者は残
らず大潮に引取られ死
長岡郡海浜
柏井難行録に曰く忽津波溢来る其声雷霆の地に落つる如く
是東北十市の海畔より津浪溢れ来る音なり須臾にして頭上
を浸し人皆沈溺す
高知市
聞出文盲に曰く高智地形より二丈も潮高き程なり大御門前
迄海の様に成る
高岡郡海浜
丁亥変記(津野山庄屋筆記)に曰く未の上刻より大潮溢れ
入り人家尽く流れ死人筏を組が如し昼夜潮入り来る事明け
五日の暁迄十二度なり志和浦竹村孫平筆記に曰く良暫く経
て大海打の波聳へて津浪に打入人家の財宝悉く浪中に沈貴
賤男女に限らず波に漂ふて苦む事多し
又安芸郡田野村福留氏記録によれば高潮は三年を経て治定
せしといへば大震後三余年の間は小震に連れ海嘯も猶已ま
ざりしなり
文化年間彼の本邦の沿海測量を以て有名なる地学の泰斗伊
能忠敬翁が同測量用を以て土佐国に来りしとき右の事実に
つき国人と問答せる佳談あり其要領を左に録す
宮崎竹助高門が筆記に曰く
文化五年戊辰余測量使伊能勘山に随行す宝永四年の変東は地
高くなり西は低くなりしといふ談に及ぶ使答て曰く地の
高下することは国々に多し怪むに足らず且南東に海を受
ける国は漸々に浜出来て海地となり北西に海を受けたる
国々は浜減て地海となる吹上の地紀伊国人の知る所其外
諸所に多し奇談なれば記す云々
宝永地震に就て阿波国海部郡鞆浦に記念碑あり其銘文の写
左の如しといふ
宝永四年、丁亥之冬、十月四日、未時、地大震、乍海潮
湧出、丈余、蕩々囊陵、反覆三次而止、然我浦無一人
死者、可謂幸矣、後之遭大変者、予慮海潮之変、而
避焉則可也、
余前年同地に漫遊せしことありしも当時はかゝる石碑の存
在を聞かざりしかば之を里人に尋ねず今其存否を確む能は
ずといふ
出典 新収日本地震史料 第3巻 別巻
ページ 540
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 高知
市区町村 高知【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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