[未校訂] (前略)亥の大変とは何ぞ。今三、四の文書の収録する
所も総合して之を記すれば、事の起りしは今を去る事二百
六年前宝永四年亥十月四日なり。此日空晴れて満天雲を見
ず、且つ風なくして煙塵動かず、暑き事盛夏の如く帷子を
着、単物を着する者もありたり。午前十一時の頃東南の方
角にあたりて大なる音響あり間も無く大地大震動を初む。
旧記の録する跡を辿りて考ふれば海嘯は地震歇みてより後
来りしが如く且つ其間に多少の余裕ありたるものの如し。
及べる区域は広くして且つ高く、昼夜に亘りて襲来する事
十二回、五日の暁に至りて漸く歇む。之がため人蓄の死傷
家屋の倒壊田園の荒蕪其他船舶米粟薪炭の流亡せしもの夥
しく沿岸村落の物件烏有に帰し殆んど棲住に堪へざるに至
れり。当時の言□にて所謂亡所となりたるなり。(中略)変
災録によりて幡多各村の被害状況を記せば左の如し(中村
町関係のみ抜萃)
中村 地震に家三ケ二(三分の二)倒れ、潮は町ま
で、渡川の潮は岩崎境脇田の池(ワイタ池か)
限り。
宇山 潮は町まで、津ノ崎境え、三十端の船一船打上
る。家は高き所故事なし。
津野崎 潮は町残りなし、家は上(右の意か)に同じ。
不破 潮は八幡の並松迄、家は上に同じ。(下川口村
亀井丈夫(号釣月)編「幡多探古資料」より)