[未校訂]3 宝永の大地震
宝永四丁亥年十月四日、大地震と共に海嘯が起り、惨状
を極めた。其日は一天晴れ渡り、十月なるに単物、帷子を
着る程の暖さであった。午ノ上刻(午前十一時)より大地
震動し初むるや、其騒動は実に言語に絶した。地軸の砕く
ると共に山嶽崩れ落ちて、土煙は天に揚り、凄惨の状、何
に譬へんやうもなく、只驚愕と恐怖のため心も空に、親は
子を呼び、子は親を求めて泣き叫ぶ有様は目も当てられ
ず、やがて未の上刻(午後一時)より大潮入り来り、人家
は悉く押し流されて、溺死する者数を知らず、死屍累々と
して恰も筏を組めるが如く水上に浮ぶさま、まことに悲惨
の極みであった。当時の被害は左の如くである。
宇佐 潮は橋田の奥、宇佐坂の麓迄来り、僅に山上の家一
軒残る。溺死約四百人。
渭浜 在所は悉く海に没し深さ五尋六尋に達した。
福島 上に同じ、溺死百余人
龍 青龍寺の客殿のみ残ったといふ。
井尻 亡所
土佐全体としては左の如くである。
一流家 一万五百七十軒
一潰家 四千八百六十六軒
一破損家 千七百四十二軒
一死人 千八百四十四人
一失人 九百二十六人
一流失米穀 二万四千四十二石
一流失牛馬 五百四十二疋一濡米 一万六千七百六十七石
一手船 百七十二艘
一商船 百三十六艘
尚当時の模様を『南路志』には左の如く書いてある。
人を転ずること丸き物を投げ転ずるが如し、恐しとも何
とも云々。
又、『万変記』には
諸人広場に走り出づるに五人七人手を取り組むと雖も俯
向けに倒れ三四間の内を転じ、或は仰向けになり又俯向け
になりて逃走すること容易ならず。と
以て如何に激震であったかを知ることが出来る。
四 荻千軒(本書〔土佐の伝説〕五一四頁と同文につ
き略)