[未校訂](都司注「史料」第二巻一一九頁~一二三頁所収の〔弘
列筆記〕と重複する部分あり)
宝永四年大地震
白鳳年間の大地震について、宝永四年十月四日未刻に起り
たる大地震は我が国記録の上に於ては、最強の地震にし
て、西国・中国・畿内・南海・東海の三十余国皆之れを感
じ、此時の土佐の地震は、最も詳かに伝へられ、死人の数
は割合に少なかりしといへとも、家屋田園社寺等の津浪の
ため流失せる数意外に多く、其損害は実に夥しかりしなり。
神武天皇、御即位よりこのかた、二千三百七十年、ケ様な
る緊しきことを聞かす、別而も駿河・参河・遠江・紀伊・
摂津の五州は、津浪押入りに諸人死すること夥し。
土佐の国にては、其の騒動殊に甚しく、在々浦々到るとこ
ろ家たふれ、大きなる立木も根こそきに打たふされ、地さ
けて三四尺より六七尺にもおよび、中より泥水おびたゞし
く湧き出て老幼は殊に難儀ニ及ふ間もなく、地震の跡より
大浪打入り、御城下廻り堤不残打こえ押やふりておそろし
き大潮入込ミ西は、小高坂、井口、北ハ万々、久万、秦泉
寺、薊野、一宮、布師田、東は介良、大津の山の根まで一
面の大海と化す。大浪打よすること前後、都合七八度にし
て、その浪の高さ五六丈もありぬべし、されとも西孕の山
にて波をふせきけれハ、御城下の方は大浪入らす。大潮う
つまきておしこむはかり也、其の外海浜の在々同時に大浪
打入りて其損害は挙げて数ふへからす、やがて其の日も暮
れに近づけとも入込したる潮は不引、又地震も大小引つゝ
きて止む時なく、人々最早逃るゝ処なしと覚悟しぬ、浦戸
御畳瀬あたりは、後に山あるゆえ、それに逃れて、幸にも
死する人少なかりしも、種崎の浜にては、死人最も多し。
一時に押よせたる大浪は、磯崎御殿残らず流失し、これに
つれて処々の民家は、たやすく暫時のうちにゆりたふして
は大海へおし流しぬ。
着るに衣なく、はむに食なき飢人苦を救ふため、此時国
守より、御侍数十人東西へ遣はされ、其節より□□にて、
諸民を救はせらる。此の地震にて城下廻りは数里の間大地
ゆりさけて卑くなり、津呂の港あたりは、これに反して高
くなりけれハ、船の出入自由ならす。依りて急に御普請あ
りしかとも、もとのことくならず、やがて同九日十日に至
りて潮も引き浪も静かに成て、山々にこもりたる人々もそ
れぞれ家あるは、わが家にかへりて住居しぬ。
此ころ大門筋、帯屋町下より一丁二丁のうち投網、あるひ
は、すくひあミにて海魚数多とりし也。また愛宕山のふも
とにてハ、鯖鱣などの大魚夥敷捕りしとそ。
此地震は、月の末まで止ます。日中七八度ゆり。夜にかけ
ては二十度にも及ぶこと毎日なり。大地ゆぶつきて定まら
さること前に同じきなり。ゆり出さんとする時はかなら
ず、側にて大筒を打ちはなつ如く、心地あしき音して鳴渡
るなり。
此地震は、日本国中感せさる処もなし、但京都のミは其損
害少なかりしか、東海道筋は、大抵破壊尤多し、又九州路
にも少々破損あり、四国も甚しくして別けて土佐は大破な
り、今其一二を挙くれば、
一流家 壱万千百七拾軒
一潰家 四千八百六拾三軒
一破損家 千七百四拾弐軒
一死人 千八百四十四人
一流失牛馬 五百四十二疋
一亡所之浦 百三ケ所
一半亡所 三拾六ケ所
一山分 山崩畑作雑穀等過分損失積不知
一港 三ケ所、大破
一御国中 往還の道筋及大破往来不自由之所数ケ所
此の宝永年度の地震は、白鳳大震後、一千二拾三年を経過
したることにして、此の時、土佐の国の津々浦々は、大抵
亡所或は、半亡所となりて初の地震に侍殿、御屋敷民家
等、一時に転倒し、怱ちにして、諸所に火起り、炎は天を
焦す折しも、高潮押入りて、田苑は海に没し、草木家畜は
言ふに及ばず、逃げ走しる諸人たちも、多く圧に打れ、浪
にさらわれて、行方も知れす成り果てしなり。
国中在々所々山まで打詰めたる潮三分ノ一迄に減り、三分
の二は定潮と成る、凡そ潮の及ぶところの田畠は、すべて
惣荒れとなり、餓殍野に満つる悲惨なる出来ごとなり。
阿波にても、徳島屋敷二百三十軒民家四十軒潰れ、由岐、
牟岐など皆亡所となりぬ。
伊予に於ては、宇和島領城破損し、潮の高さ平地より一丈
斗り上る。今治・松山・吉田・大州領も海辺の郷浦悉く大
潮入りしなり。
当土佐にては前にも記せる如く、山のいたゞき近く大潮入
りしより田園市町は、大半海底に没し、険山却って平地と
なる。実にもゆゝしき珍事なりける。