[未校訂]宝永年間の地震
偖も 慶長地震の後 百三年を経過したる東山天皇の御宇
宝永四年十月四日には三度目の大地震土佐に起れり 是の
震災は 実に空前の最大地震にして 四国・中国・畿内・
南海・東海の三十余国皆之に感じたるが 此の大震災前の
気象に就て記されたる或書にいへり
大地震の年随分暖かなる冬にて 十一月十二月迄は 袷
一つか かたひら一着にて暮らす 年明けても 寒不参
大地震後二月目ほとも余震やますして 其中宝永山を
湧出し 其時降りしきりたる砂は 十一月廿六日より降
り出して 十二月三日迄つゝき平地に五六寸積上る
又曰く
宝永四年九月十月十一月迄 長日でりし 十二月八日夜
大雪降り高さ二尺ほと積上る 此雪三日間降りて 大寒
限なし 右地震三年ばかり少々づゝゆるなり
又曰く
大地震明る二月迄ゆりやます 初のことく強くはなし
大筒なと打つごとし 日々五度六度夜も同じ也 大地鳴
る度々に地震する也
又曰く
右大地震より井戸泉水迄もかれて人々難儀することなり
而して此大震後につゝく小震ハ 以後三年間歇ます 微震
は更に三四年間に渡りて已まさりしと云ふ
偖も 宝永四丁亥年十月四日未の上刻大地震起り山穿て水
漲し川埋りて丘となる 国中の官舎民屋悉く転倒す 逃ん
とすれとも眩めきて圧に倒れ 或は頓絶の者多し 又山地
の人々は巌石の為に死傷するも数ふへからす
地震の後には必す高潮入るものなりなと語ふうちに 同下
刻津浪打て海辺の在所 一所として残る地もなし 未の下
刻より 寅の刻まて昼夜十一度打来る也 中にも第三番の
津浪高く 山の半腹にある家も多く漂流す 国中の死人二
千余人 当国に不限 伊予・阿波・紀伊・摂津・長門の海
辺も 頗る破壊に及ぶ 其外 西国・中国・関東は地震斗
と云ふ
大阪 地震崩家一万四千十五軒
高潮入大船小船競落す橋数三十八
死人一万五千二百六十三人
又隣国の様子
徳島 士屋敷二百三十軒 民屋四百軒潰る 潮入はなし
其他傷む所多し
阿波 井佐より志和木まで存亡不知 由岐両浦共亡所 溺
死多し 其他にも損所不詳
伊予 財悉く流失 吉田浦と云ふ所ハ民家五十軒斗流失
此所の潮の高さ 平地より八九尺斗上ル 今治領 吉
田領 松山領も海辺の郷浦悉く大潮入りたれとも大破
ハ無し
土佐国 潮入在々所々田苑ハ云に不及 故の市井は大半海
底に没し嶮山却つて平地となりぬれハ新に国土を生し
出したる心知也
其概略を記すこと如左
安芸郡
(注、以下各郡別被害情況が続くが、本書〔南路志〕
四三三頁と同じにつき略す)
右国中潮入在々所々山迄打詰たる潮三分ノ一は速に減し
三分の二ハ定潮となる 凡そ潮の及ふ所 悉く永荒と成
餓莩野に満つ可悲〳〵去るにても 今年は如何なる気運
そや 地震冬を終つて いまた息ます去る八月十九日大
風雨の後より 諸木花開き偏に春の如し秋毎に風雨すれ
は必花咲くこと珍らしからすといへとも 十月四日を過
きて弥々草木生かへり 山には楊梅実を結ひ 野には筍
生出ること夏にひとしかりきとそ
右地震に付 土地の隆起したる所と陥没せし地方とを挙く
れは
高知以東土佐国半分の海岸
隆起地 壱ケ所
高知以西同上
陥没地 廿一ケ所
市街 六ケ所
田苑 十二ケ所
此の大震災後廿日を経て 即ち宝永四年十月廿四日 当国
藩主山内豊隆公より 家老山内規重を以て幕府に届出しめ
られたる土佐国大震損害高左の如し
国中損毛覚
(注、本書〔南路志〕四三三頁に同じつき略す)
偖も 土佐国と云ハ 本領五十二万三千七百三十八石なり
しか 今弐十余万石となるは 彼白鳳の大地震の時三十万
石斗りの石高田地海底に沈没したるによるもの也
宝永四年迄 此白鳳より一千二十二年に成るなり
偖も 宝永四年丁亥十月四日は 朝より風少もふかす 天
気晴朗暖かにして 諸人単物帷子なと着しぬ 其未の刻は
かり 東南の方おひたゝしく鳴つて 大地ふるひいつ 其
ゆりわたること 天地を一つにしておはらんかとおもはる
る 大地二三尺に割れ 水湧き出 山崩 人家潰るゝこと
将碁倒を見るか如し 諸人広場に走り出る 五人七人手に
手を取組といへとも うつふしに倒れ 三四間の内をころ
はし あるひはあをのけに成 又うつふしになりて かけ
走ることたやすからす 半時はかり大ゆりありて 暫止る
此間に男女気を失ふもの数をしらす 又暫くしてゆり出
しやみてハゆる 幾度といふ限なし 凡一時の内六七度ゆ
りやまりたる間も 筏にのりたるごとくにて 大地定まら
す われさけたるところより 泥水わき出 世界も今沈む
様にも覚ゆ 其時半刻斗あつて 沖より 大浪押入ると声
々に呼ばり 上を下へとかへし 近辺の山に迯登る たゝ
前後になり われかちに迯まとう 此外在々浦々 までか
くの如し
又迯行く内に地震ひて 老幼殊に難義に及ふ
間もなく後より大浪うち入り 御城下廻り堤不残打こえ押
切り 大潮入りこむ
西ハ小高坂・井口・北ハ万々・久万・秦泉寺・薊野・一
宮・布師田・東は 介良・大津の山の根まて一面の海と成
る 大波打つこと 都合六七度 其浪□高サ五六丈もある
べきや
されとも西孕の山にて波をふせき□□ハ御城下の方は大浪
不入 大潮うつまきおこす斗也
其他海浜の在々同時に大浪打入其□□□□夥し
□□□□日もくれになれと入込みたる潮引かす 其うつま
き早きこと矢の如し 又地震やむことなく人々生たる心地
するものなし
此時国主より 海辺の山々へ貝役を遣はされ 沖より大浪
見ゆる時は 同時に貝を立て告知らすへきとのことなり
五六日の内は貴賤山籠りし あるひは 高き岡にあれと
も しはしの間も安き心はなし
浦戸 御畳瀬は後に山あるゆゑ 死人鮮し種崎の浜ハ死人
最多し
浪入数度の内 初度二度目は強からす 三度の浪 高サ七
八丈はかり此浪に 磯崎御殿不残流失す まことに時移り
事去り世は定めなきとはいひなから 今まて平らかなる波
暫しの内に起りて かの御殿をはしめ 所々民家に至る
まて暫時の内に ゆりたふし おし流し 算を乱すこと限
りなし殊に数百の男女老若波にもまれ あるひは大海へお
しなかされ あるひは磯へよるといへとも巌峨々として
あけへき便なく 又木屑にとりつき 磯遠くなれハ 声を
あけて たすからんことを乞ふ あるひは 浜辺のもの網
なんと取集めて投かけ 思ひ〳〵に助くもあり また運命
つたなきものは 引汐にゆられ流れ あるひは 五台山・
吸江・薊野・秦泉寺の磯に あかるも有り
されとも親は子にはなれ 子はあかれとも親はなく 又家
あれとも住人なく 人あれとも家宅なく 此時に至りて
国中の難義たとふるにものなし
去るほとに 国主より 御侍数十人 東西へ遣はされ 其
節寄〳〵にて諸民の飢を救ハせらる
また種崎浜の死人地震の後廿日斗声空にのこり 雨夜なと
には数百人の声して たすけ給へと呼ふ 聞くもの魂を失
ハさるものなし
此大地震ハ 城下廻り六七里かうち 大地七八尺斗ゆりさ
け低くなり 津呂 室津の辺は 又七八尺も尓来よりゆり
あけ高く成る これより津呂の港船出入不成 通路不自由
なる故 急に御普請ありしかともとの如くならす それ以
来 此湊船の通行不自由に成るなり
同九日十日に至つて潮引 浪も静かに成つて山々に籠りた
るもの それ〳〵家にかへりて住居す
此ころ 大門筋 帯屋町下より一丁二丁の内 広網あるひ
ハすくひあみにて海魚数多とりし也
また愛岩山の麓にては 鯖鱸なと夥しくとりしと云ふ
但此月の末まて地震止す 日中七八度 夜へかけてハ二十
度にも及ぶこと毎日なり 大地ゆふつきて定まらさること
前に同し 其ゆり出さんとする時ハ かならす大筒を側に
て打ことく夥しく鳴り渡るなり
此地震日本国中残る処なし 但京都は少し 東海道筋ハ大
抵尤破損多し 九州地少々損害あり 四国殊に甚しく 其
内土佐は大破なり 外にも津浪にて死人過人の所も有と云
ふ
右破損御註進の為め江戸表へ
御奉行山内主馬殿被遣候也
当時江戸表に於ける有様の大略を記せは
一今年九月(十一月カ)十九日より廿三日まで之中江戸中近辺くらやみ
となり 大地鳴動 黒白砂ふり積事二三尺 右五日の中
昼夜不相知 其後空晴 世間通路ありて富士山より火燃
江出 三十里四方へ土砂ふき上ぐ 此間富士の裾野に山
壱出来る 是を宝永山といふ也