[未校訂]印南
一方、宝永津波による被害はさらに上回り、中村・字杉・
光川の三カ村も流失した。印定寺には享和四年(一七一
九)につくられた大型の位碑があり、これに一六二人を数
える水死者の法名が列記されている。また印定寺の境内に
“高波溺死霊魂之墓”と刻んだ享保四年建立の供養碑があ
る。その碑文には「宝永四丁亥初冬四日午之下刻、有大地
震、而山崩地裂、同未之上刻、凹凸而津浪揚来、家財牛馬
不及(ママ)老若男女、流死之輩凡百七十有余人也、近見遠聞人最
哀思侍者也。
当津浪之高札至六尺余、印定寺柱及二尺余限有山口領」
とある。
跡之浦
一九四六年津波では、水田に溢れた津波は山のつけ根に
達し、当時六五戸あった家のうち六戸が流れ、津波の高さ
は海岸で三・五メートル、湾奥では四・四メートルと測定
された。
跡之浦の集落を見おろせる高台に東光寺があり、その門
前に昭和四八年に建てられた真新しい津波碑がある。これ
に次のような津波記録が刻まれている。「寺の下、昔(宝
永四年)は浪、跡の浦と新庄との浪打合申候由。此度(安
政元年)は、下の田壱枚より上り不申候、樫山家古記録」。