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項目 内容
ID J0900435
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔大阪府・和歌山県沿岸における宝永・安政南海道津波の調査〕
本文
[未校訂]印南
 一方、宝永津波による被害はさらに上回り、中村・字杉・
光川の三カ村も流失した。印定寺には享和四年(一七一
九)につくられた大型の位碑があり、これに一六二人を数
える水死者の法名が列記されている。また印定寺の境内に
“高波溺死霊魂之墓”と刻んだ享保四年建立の供養碑があ
る。その碑文には「宝永四丁亥初冬四日午之下刻、有大地
震、而山崩地裂、同未之上刻、凹凸而津浪揚来、家財牛馬
不及(ママ)老若男女、流死之輩凡百七十有余人也、近見遠聞人最
哀思侍者也。
 当津浪之高札至六尺余、印定寺柱及二尺余限有山口領」
とある。
跡之浦
 一九四六年津波では、水田に溢れた津波は山のつけ根に
達し、当時六五戸あった家のうち六戸が流れ、津波の高さ
は海岸で三・五メートル、湾奥では四・四メートルと測定
された。
 跡之浦の集落を見おろせる高台に東光寺があり、その門
前に昭和四八年に建てられた真新しい津波碑がある。これ
に次のような津波記録が刻まれている。「寺の下、昔(宝
永四年)は浪、跡の浦と新庄との浪打合申候由。此度(安
政元年)は、下の田壱枚より上り不申候、樫山家古記録」。
出典 新収日本地震史料 第3巻 別巻
ページ 367
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 和歌山
市区町村 和歌山【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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