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項目 内容
ID J0900432
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔西区史一〕○大阪府
本文
[未校訂]一地震と海嘯
宝永四年の地震と津浪
 宝永四年十月四日、晴天にして暖かな日であったが、午
の下刻(午後二時前)頃、南西の方に地鳴りすと思ふ間も
なく大地震となり、鳴動次第に激しく一時間余りも続き、
江戸堀、伏見堀、立売堀、堀江新地を始めとして、心斎橋
筋の建家は残らず倒壊したので、町民は恐れて家財道具と
共に、我も我もと船に乗り移りて難を避けたが、申の上刻
頃(午後四時)より木津川口に、一ノ洲の海底より俄かに
泥交りの暗黒色の大海嘯が湧き上り、二十丈許りの高さで
難波島、三軒屋、前垂島に襲来し、人々は慌てふためきつ
つ上町方面に難を避けたが、地震を恐れて上荷船、茶船等
に乗って居た者は陸地に上る間も無く、あわやと云ふ間に
大潮に押されて逆流し、川口に繫ぎ置きし諸国の大船と共
に押上げられて橋を突き落し、小船は大船に挾まれ或は激
突して砕かれ、多数の悲惨なる死人を出した。道頓堀川は
日本橋より西の橋、堀江川は堀江橋迄、土佐堀川は渡辺橋
迄の橋は悉く落ち、寺島、勘助島、上下ばくろ辺の家々は
流され、阿波座、新靱町、京町堀は崩れ、雑喉場は大半崩
れ、残れるは流され、鰹座は残らず崩れて死人夥しく、町
民は御城端に逃れ集ふた。無事であった町々も店を閉じて
商売を休み、漸くにして七日目位より店を出したが、其後
は半月程も余震が続きて孰れも戦々競々たる有様であっ
た。此地震で各町は辻番を設けて警戒した為、火災の起ら
無かった事は幸ひであった。(宝永四年亥十月四日大坂大地震之事、今昔地震津波記、堀江誌、大阪府
全志、大阪市史、浪速叢書)
大阪天満惣町中崩レ家并死人同日高汐ニ付破損潰船溺
死之覚
一潰家 九百九十三軒
一曲家 七百八十一軒 但シ住居ならざる分
一潰蔵 廿九ケ所
一破損蔵 卅八ケ所
一潰納屋 六十九ケ所
一破損納屋 卅三軒
一潰小屋 十四軒 但町人屋敷之内ニ有之分
一落橋 卅一ケ所
一破損橋 十四ケ所 内壱ケ所公儀はし
一潰門 百八十ケ所 但町境之門也
一破損潰船 七百七艘 但大坂諸川船之分
一行衛不知船 百五十六艘 合八百六十三艘
一破損潰船 九艘 過書船
一同 七艘 伏見船
一廻船破損 九十三艘
内八艘 地廻船 六十艘 田舎廻船 廿五艘 船主不知
一痛船 三百卅六艘
内四十七艘 地廻船 二百八十九艘 田舎廻船
一死人 五百四十一人 但九人溺死
内男二百十二人 内八十八人男子
女三百廿九人 内九十五人女子
右之内他国者二人(摂陽奇観)
 摂陽奇観所載の死人は殆んど地震によるものゝ如く思は
れるが「宝永四年亥十月四日大坂大地震之事」には[打連|うたれ]死
人三千六百廿人、津浪死人壱万二千人とあり「今昔地震津
浪記」には死人六千人、水死人壱万二千人と孰れも津浪に
よる死人数を断然多く記載して居るのである。
出典 新収日本地震史料 第3巻 別巻
ページ 360
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 大阪
市区町村 西【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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