[未校訂]○在田郡広荘広村の条
広村は湯浅村に並ひて繁昌の地なり宝永年間の津浪に一村
悉く流失し其後修造をなすといへとも終に古に復する事あ
たはす。
(中略)
此地古は海中なりしに後世陸地となり運送の便宜きに因り
て人家次第に充満し富豪の者多く広の町の名起れり其後畠
山氏の邸宅を建て益繁栄するに従ひて土地狭小なれは洲浜
へ家宅を建出し四百間余の波除石垣を西北の海浜に築き郡
中の一都会の地となりぬ然るに宝永の高波に一村悉く流失
し地形亦一変せり後荒廃の地に家宅を造立して暫く今の形
となれり因りて町の名を改めて広村といふ宝永前の如くな
らされとも湯浅に次て繁栄の地なり村中南中北西湊宇田の
六組に分る其内市街の縦町大筋三筋あり田町中町浜町とい
ふ横の大筋は新町御幸道等の名ありて其余町名多し其中中
町通りは八町ありて市店六町半あり小名宇田は村の艮七町
にあり小名寺村は村の南にありて旧は家も多くありしに高
浪の後家を高きに移し今纔に十軒にも満たす。
(中略)
覚円寺 中町の中の町にあり(中略)
旧記は宝永の津浪に流失すといふ
安楽寺 中町西の町にあり
旧記は宝永の津浪に流失せり
○在田郡広荘和田村の条
山本村の北十六町許にあり
波塘
広村の西出埼にあり長百二十間 巾根敷二十間南竜公広村
の御殿御造営の時初めて築せらる宝永年中高浪の為に破却
す御修覆ありて船繫り能き湊となる。
○日高郡富安荘小松原村の条
下富安村の南十二町にあり熊野往還にして家居多く町をな
せり地形を察るに此地上古は入江なり中世潮退き其地に小
松の生茂りしに村居して小松原の名起れるなるへし。