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項目 内容
ID J0900400
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔感恩碑の由来〕○和歌山県▽
本文
[未校訂]因に近辺の村々の被害を出しますと、湯浅は家数五百六十
三軒(流失二百九十三軒、禿家五十五軒、大破損二百十六
軒)蔵六十六軒(三十軒流失、禿家四軒、大破損三十二
軒)御蔵二軒、船数七十六艘、網十七帖流失、死人四十一
人、牛二疋、橋三ケ所の流失であります。また西広は家数
六十八軒(流失四十九軒、大破損十九軒)船一艘、御蔵一
ケ所、牛二疋の流失で、栖原は家数十七軒(流失二軒、禿
家五軒、大破損十軒)で、別所は家数三軒流失、死人一人
で、唐尾は家数二十三軒(流失十九軒、大破損三軒)蔵二
軒、船一艘、網十二帖、御蔵一ケ所の流失で、和田村は家
一軒の流失で、山本は家一軒の大破損、橋一ケ所、船一艘
の流失でありました。すれば広と湯浅とは、何れもその損
害が甚だしかった。中にも広は最も甚だしき損害を受けた
のであります。
 それが為め、広・湯浅の八百人ほどの被害者に、十月五日
より十四日迄粥の施行を致しました。また十九日より被害
者に小屋入をさしましたが、広村に二百九十六人、湯浅に
は二百十三人ありました。この時の海嘯は広村の全部を漂
没したと云ってもよい位であります。南竜公が寛文年間に
築かしめた和田の石堤も、この激しい海嘯の為めに崩壊し
たのであります。
宝永の海嘯から受けた我が広村の災害は実に激しかった。
海嘯のすぐ前なる亥九月の家並判帳面の記する処では一千
八十六軒あったと云ふことであるが、海嘯の為め殆ど流失
破壊しました。その後漸次に回復せられて四百軒ほどにな
りましたが、
(中略)
この宝永の海嘯から凡そ七十五年を経過しました安永十年
二月に宝永の海嘯に破壊された和田の石堤の復旧工事が企
てられ、其後寛政五年四月六日から工事に着手し、享和二
年九月迄十ケ年の日数をかけて成就しました。宝永四年か
らは九十六年目になります。
出典 新収日本地震史料 第3巻 別巻
ページ 342
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 和歌山
市区町村 広川【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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