[未校訂]宝永四年十月四日午後二時より二時半までの間に強烈なる
大地震あり、約一時間を過ぎて大津浪襲来し、本郡沿岸の
地を洗ひ去れり、此地震の震域は東駿河より北甲信二州に
及び西は九州本部に亘りて直経二百里の間に及べりとい
ふ、而して其震源地は本郡西南約二十里以内の海中にあり
しが如く従て津浪の勢は実に凄まじく広町は当時一千戸に
近かりしが其過半は須叟の間に洗ひ去られ掩死するもの三
百余人字寺村の如きは全滅して地形為に一変し天正以後の
古記旧物此災の為に一掃せられ、覚円寺安楽寺の如き多く
の避難者を載せたるまゝ沖合遙かに流失せりといふ、広村
の西なる波止場の如きも此時大破せり広町は爾来戸口頓に
減して遂に一村落と化するに至りぬ、其他湯浅、栖原、
田、辰ケ浜北湊等何れも多大の害を被り人畜の死傷家屋の
流失するもの亦多かりき云々。
広浦は近世に至るまでは湾内水深く、大船巨舶の碇泊地
として其繁栄遙に湯浅を凌駕せしも、天正、宝永、安政等
の海嘯の為に幾回か陸上を洗はれ、湾内亦泥砂堆積して遂
に一小浅澳と化せり。
広町は商家軒を並べ船舶輻輳し、一時全盛を極めたりし
も、畠山氏衰ふるに及びて、広町も漸く衰微せしが一朝天
正年間の津浪に遭ひて大なる打撃を蒙り、而も尚未だ全く
其旧形を失ふに至らさりしが、宝永年間再び津浪に洗はれ
て其全形を失ひ、支郷寺村の如きは此時全滅して今は唯其
地名を存するのみとなれり。
此地方に「広も千軒、湯浅も千軒」といひし時代は蓋し
天正以後宝永の津浪以前のことをさすものならん歟。
安楽寺 広村広、宝永の津浪に寺院寺記共に流失せし
が、後中町に再建し、安政の津浪後今の地に移れり。
西ノ浜 古広繁華の地なりしが、数回海嘯の来襲を受け
て、松林又は雑草の荒野となれり。
大波止 和田の北、出崎にあり。長百二十間幅根敷二十
間。南竜公広村御殿造営の時初て築く所なり。宝永中津浪
の為に破壊せしが、修覆を加へしより広湾は船舶の碇繫便
利となれりといふ。