[未校訂]一十月四日日高郡南部海嘯来リ山内村人家悉ク流失ス
紀伊国名所図会ニ
宝永四年十月四日午ノ時下リ波濤
アラヒテ山モ崩レ地モサケ家居モ
クツガヘルカト思フ迄震動シテ人皆肝ヲケシアハテサワ
ギケルニ忽チ高波寄来テ山内村ノ家居悉ク流レウセケリ
老若男女此有様ヲ見テアナ恐シ海面ヨリ高波コソ立来レ
リ逃ヨ逃ヨト声声ニヲメキサケビテ取ル物モ取リアヘズ
山岡ニ走リ登リ苫ブキノイホシテ苔ノ筵ニ草ノ枕三夜四
夜バカリ起臥シヌアサマシナントイハンモ更也サレド河
ヨリ此方ヘハ浪モ来ラズ民家モアヤマツ事ナカリシ
按ニ此ノ時広村ノ如キハ一村悉ク流失 竜祖御新築和田
村百二十間ノ大波塘モ破却ス御修復アリテ船繫リ能キ港
トナルト続風土記ニアリ
一十一月廿三日ヨリ富士山焚ケ砂灰降ル廿七日ニ至テ震動
ヤマズ山腹ニ一峯ヲ出ス人之ヲ宝永山トヨブ
此歳災変シバシバ至ル将軍僧侶ヲメシテ吉凶ヲ問フ伝
通院祐天答テ曰ク沙ハ地ニアルモノ也今天ヨリ降ル不順
也禽獣ノ為ニ人ヲ殺ス是モ亦順ナラズト将軍懌ヒス明日
祐天ヲメシテ其直ヲ賞シテ物ヲ賜フ(十五代史)