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項目 内容
ID J0900380
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔塩崎幸夫氏口述〕○和歌山県田辺市新庄跡ノ浦▽
本文
[未校訂] 跡ノ浦東光寺下の坂道を「ドウノ坂」という。本当は
「東光寺のお堂の坂」の意かと思われるが、昔津波がうち
上げた時の音に由来するという伝説がある。これは宝永の
津波であろうと思われる。また宝永の津波の時この寺の石
段まで津波が来て名喜利、跡ノ浦の両方向から来た水がぶ
つかりあったという。
 新庄町北長の樫山松一氏(北原一〇三〇)宅地入口の柿
の木の根元がこそげているのは宝永地震津波のとき流れて
来たものがこの木にぶつかって若枝がもげた跡という。
 塩崎幸夫氏宅裏山の出井へ通じてあった山路(現在は小
学校校地造成のため途中切断されている)の曲り角の下ま
で津浪が来たと伝えられている。
 漕谷(こぎたに)は北原河内神社(通称えびすさん)横
手の小谷で現在藪になっている。昔津波の時人々が避難し
ている所へ津波にのって船がおし上がって来て、船がこぎ
出された。安政の津波の時か、宝永の津波の時かはっきり
しない。
「よびあげ地蔵」というのは元来関所の手形検査の役人が
街道を通行する者をよびあげたのに由来するというのが正
しいが、昔津波の時地蔵がよびあげて人々を助けたからだ
という俗説もある。
出典 新収日本地震史料 第3巻 別巻
ページ 335
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 和歌山
市区町村 田辺【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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