[未校訂] 跡ノ浦東光寺下の坂道を「ドウノ坂」という。本当は
「東光寺のお堂の坂」の意かと思われるが、昔津波がうち
上げた時の音に由来するという伝説がある。これは宝永の
津波であろうと思われる。また宝永の津波の時この寺の石
段まで津波が来て名喜利、跡ノ浦の両方向から来た水がぶ
つかりあったという。
新庄町北長の樫山松一氏(北原一〇三〇)宅地入口の柿
の木の根元がこそげているのは宝永地震津波のとき流れて
来たものがこの木にぶつかって若枝がもげた跡という。
塩崎幸夫氏宅裏山の出井へ通じてあった山路(現在は小
学校校地造成のため途中切断されている)の曲り角の下ま
で津浪が来たと伝えられている。
漕谷(こぎたに)は北原河内神社(通称えびすさん)横
手の小谷で現在藪になっている。昔津波の時人々が避難し
ている所へ津波にのって船がおし上がって来て、船がこぎ
出された。安政の津波の時か、宝永の津波の時かはっきり
しない。
「よびあげ地蔵」というのは元来関所の手形検査の役人が
街道を通行する者をよびあげたのに由来するというのが正
しいが、昔津波の時地蔵がよびあげて人々を助けたからだ
という俗説もある。