Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J0900358
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔和歌山県災害史〕
本文
[未校訂]宝永四年十月四日(一七〇七)
宝永の大地震と大津波
 十月四日天気快晴、未の上刻(午後二時)に大地震があ
り、家屋の倒壊、人畜の死傷その数を知らず、地域は近
畿、東海道、四国、中国、九州にまで及び、四国だけで四
十万人死亡という『基凞公記』の記録は誇張に過ぎるとし
て、『谷陵記』によれば、土佐国の災害を記して、「山を崩
し水を漲らし、川埋まりて丘となり、国中の官舎民屋は悉
く転倒した。逃れんとすれば目がくるめいて倒れる家に圧
せられ、或いは頓死する者が多かった。また山間の人々は
巌石のために死傷するもの若干を出した。地震の後は必ず
津波がくるとつぶやいているところに、午後三時から翌日
の午前四時までに十一度襲来した。中でも第三の津波高
く、山の半腹にある家も多く漂流した。土佐国の死人二千
余人、……大阪は地震崩家一万四千十五軒、高潮のため小
船が沈没し、橋数三十八陥落した。或は家潰れて圧死する
もの、一万五千二百六十人と称せられた。阿波の徳島は士
屋敷二百三十軒、町家四百軒、地震に潰れたが、津波はな
かった。沿岸の漁村で津波のため流亡したもの多かった。」
と記している。(大正震災志の日本震火災略史)
全国被害は倒壊家屋二万九千戸、死者四千九百人に及ん
だ。(大日本地震史料)
壊家二万九千、死者四千九百、九州の南東岸より伊豆まで
津波を受く。土佐にてその高さ二十メートル余、土佐西南
部処々陥没、東南部隆起、震源地東海道及び南海道沖(理
科年表)
 この地震は古来最大の激震で、大森博士談によれば、震
源地は紀伊と阿波の中間より約七十八キロ南方海中で、時
刻は午後二時から二時半までである。
 本県では震後約一時間にして大津波三回来襲した。日高
郡山内村(現在南部町に含む)、印南地方、名古浦(御坊
市)の民家殆ど流失し、有田郡の広も八十五%家屋流失
し、水死する者三百余人。田辺では流失家屋二百六十九
戸、倒壊二百七十四戸、流亡人員二十四名、串本の錦江山
無量寺の堂宇流失した。(南紀徳川史、県誌、有田郡誌、
紀州災異誌)
和歌山市
 十月四日午の下刻(午後一時)頃からゆり始め、家屋の
倒壊人畜の殺傷枚挙にいとまなく、田畑埋堤塘また多く震
裂して水また青砂を吹き出したが、未の刻坤位に轟々の声
発して海嘯来襲し、湊川口から大船を押しこみ、伝法橋は
三断して落ちた。爾後毎日十度二十度震い、人々生きた心
地なく、或は在郷に遁れ、或は庭前または空地に仮屋を立
てて寝臥した。十一月中もなお一昼夜に二、三度ずつゆ
り、後次第に遠ざかり軽微となって、十二月になって平静
に帰した。(和歌山市要)
有田郡
 宝永四年十月四日午後二時から二時半までの間に強烈な
る大地震があった。約一時間を過ぎて大津波襲来し、本郡
沿岸の地を洗い去った。此の地震の震域は東駿河から北甲
信二州に及び、西は九州東部にわたって直径二百里の間に
及んだ。その震源地は本郡の西南約二十里以内の海中であ
ったようで、従って津波の勢は実に凄じく、広町は当時約
一千戸に近かったが、その過半は須叟の間に流失し、溺死
するもの三百余人、高寺村の如きは全滅して地形ために一
変し、天正以後の古記旧物はこの災のために一掃せられ、
覚円寺、安楽寺の如きは、多くの避難者を載せたまゝ沖合
遙かに流失したという。広村の西の波止場もこの時大破し
た。広町は爾来戸口が急に減少し遂に一村落と化した。そ
の他湯浅、栖原、田、辰ケ浜、北湊寺いずれも多大の害を
被り、人畜の死傷、家屋の流失するものが多かった。
日高郡
 日向から伊豆に至る太平洋岸及びその附近、大震及び大
津波にて、潰滅家屋二万九千、死者四千九百あり、蓋し此
の大地震は、陸地に於ける激震区域即ち家屋の壊倒を生じ
たる範囲の広大なる点において本邦地震史上未曾有に属
し、東北は駿河、甲斐、信濃より美濃、近江、丹波、播磨
の西南諸国及び四国を含み、西南は九州の東部に達して二
十六ケ国に及び、奥羽、蝦夷を除く外、皆その余波を蒙ら
ざるはなし。震域の形状及び津波の波及状態より察する
に、震源は恐らく日本の地帯構造軸に並行せる長帯なりし
なるべく、その位置は紀伊半島及び四国の南方約二十里乃
至三十里を隔てたる太平洋底にありしなるべし。
 当日午の下ノ刻(午後一時)(本郡の記録は、すべて午
の下ノ刻というに一致し、田辺、土佐の記録には未の上刻
〈午後二時〉とある)俄然激震を起こし、震後約一時間で
津波の第一波襲来し、更に一時間乃至二時間ごとに一回ず
つ襲来したるもののようで、(土佐では寅の刻まで十一回
寄せ来たという。)、波の高さは五、六丈乃至七、八丈に達
し、第三波が最大であったようである。本郡では南部地
方、特に南部川右岸の地、被害甚しく、山内村(今の南部
町大字山内)の如きは怒濤激突の衝に当り、民家悉く流失
したが、左岸の部落には鹿島があって激浪を遮ぎったので
被害はなかった。
 印南は惨害更に甚だしく、中村、宇杉、光川の民家悉く
埋没し、橋落ち道崩れ、死者百七十余名(続風土記に三百
余人とあるのは間違い)に及んだ。これより先き、同浦は
元禄十五年の大火に全村の大半焼失し、痕痍がいまだ癒え
ないのに再び大厄に遭ったのである。
 日高川口付近では、名屋浦(今の御坊市名屋)の民家が
多く流失したが、源行寺は本堂庫裡等の破損にとどまっ
た。罹災民に対しては、「名屋浦鑑」にお救いとして粥等
下されという。
 西口、由良方面の状況は詳かでないが、由良湾内吹井浦
では、浪があがって多少の被害があったようで、覚性寺が
海浜を避けて山麓の現地位に移ったのはこの津波より後の
ことである。
 隣郡田辺にては流失家屋二百六十九、倒壊家屋二百七十
四、流亡人員二十四を出し、有田では広村全部流失、水死
三百余人を出した。
その惨状の一端を知ることができよう。
 斯くてこの災厄は甚しく世の不景気を招いた上に、当局
が政治をあやまり、細民の疲弊は甚しいものがあった。
(日高郡誌)
田辺町
「田辺大帳」宝永四年の条に
一十月四日未の上刻(午後一時)に大地震、土蔵、古屋な
どゆりくずし、程なく津波上がる。平次居宅にて床より
五尺程上がる。老人病人小児は波に流れ申す者これ有
り、又牛馬犬猫鶏死すこと数知らず、内町死人二十四
人、本町筋過半流失、片町、紺屋町過半流失、江川残ら
ず流失申し候、飢人ら御座候
一地震潮の節、蓬来山、上ノ山其の他近在山岡に宿し申す
人殆んど陣所の如く、山より見おろし候えば、町、江川
の人家漁船、廻船夥しく麓へ流れ寄り……。暮に及ぶま
で両三度大波と見え、天地も崩るるように覚え、命遁る
を手柄に思い、欲徳損失の弁えなく、然る処引潮と見え
暮に及ぶ節、山より見候えば、松明、灯燈にて諸道具拾
い、戸棚、長持、簞笥ようの物打砕き盗み取る音、誰聞
き誰がとがめる者これなく、又中に留守居置くもの無く
候えば、盗人入り込み候えども、是非に及ぼず、流れ残
る家道具等、盗まるる事数知らず、公儀より御制道強く
候えども、盗み取る諸道具出で申さず、波に流し候も又
流れざるも一日に失い申す事前代未聞の事に御座候
一大橋、小橋崩れ流れ、伊作田又は夙浦に切れぎれ流れ寄
り申す由、これに依って江川船渡仰せつけられ、御扶持
下され昼夜渡す
一同五日の改め、家屋四百十一軒、内百五十四軒浪になが
れ、百三十八軒地震につぶれ、百十九軒大破、蔵八十一
ケ所、内六ケ所流れ、七十五ケ所潰る。右町分なり。
一江川分、家数二百八十軒、内五十五軒潰れ二百二十五軒
流る
一流死二十人の内、七人町、十三人江川(内三人男、十人
女)、馬一匹江川にて流死
一飢扶持御願申上げ、御借下され置き相渡し申覚
一米二十五俵 江川へ

二俵庄屋、四俵二人年寄、二俵渡し守扶持。四俵肝煎川口
市兵衛、右四人に渡申候
その外
一米九俵 片町 内一俵年寄茂八に被下候
一同七俵 袋町 内一俵年寄清右衛門に被下候
一同十俵 紺屋町 内一俵年寄太左衛門に被下候
一同六俵 本町 内二俵惣代甚兵衛に被下候
一同十二俵二斗 南新町 内二俵二斗丁年寄久衛門に被
下候
〆六十九俵二斗 両度に被下候
一米二十五俵
右は町、江川小屋掛ケ仕、竹木藁繩の代として被下置候
一十月二十日札遣停止の御触れあり、其後十月九日まで札
遣申すべく御触れこれ有り候へども、一切遣いこれな
く、商相止り申すことに候えば、下々弥々飢に及び申者
多く、其後御引替の儀仰せ出、銀札一貫目に銀子二百目
下され候
この田辺大帳によれば、今回の地震、津波の状況、被害及
びその後の救恤の大体を想察することができる。更に「宝
永四年十月四日、大地震大波書上、田辺組」田所氏文書には、
1家数 合 四十三軒
内 十五軒 流家
十九軒 つぶれ家
一軒 流蔵
一軒 流稲屋
三軒 つぶれ稲屋
三軒 つぶれ牛屋
一軒 流馬屋
2船 二隻
3人 二人(男一、女一)
4家 八軒 内六軒流家、二軒流牛屋
右は十月四日大地震大波に流家、つぶれ家並に流死書上ケ
如此に御座候
西ノ谷村庄屋 弥次郎衛門
1家数 合 十一軒 目良村
内 五軒 流家
一軒 流稲屋
三軒 つぶれ家
二軒 流牛屋
右は……(省略)
目良村庄屋
1家数 合 七十八軒 神子浜村
内 二十六軒 流家
十七軒 流稲屋
十三軒 流牛屋
十六軒 つぶれ家
六軒 つぶれ稲屋
五軒 つぶれ牛屋
一名 流死
牛一 流死
右は……(省略)
神子浜村庄屋 市兵衛
1家数 合 六軒 流失つぶれ
右は……(省略)
湊村庄屋 庄屋名逸亡
1家数 合 三十六軒
内 二十軒 流家
十六軒 つぶれ家
人一人 流死
敷村庄屋 庄屋名逸亡
以上いずれも今の田辺町内で前記の町、江川の被害に合す
べきものであるが、この外に新庄村は流家百八十五軒、流
稲屋百九十六軒、流牛屋四十軒、流蔵五軒、御蔵流二軒を
あげている。
災害の甚大であることは稀有で、安政の災と共に地方震災
の最大のものである。
 今度の震動は、東海、畿内、山陽、南海及び九州東部に
亘り二十六ケ国に及ぶ本邦震災史上有数のもので、沿海の
地は概ね津波を伴い、潰家二万九千、死者四千九百人と註
せられ、就中土佐最も甚しく、本県では田辺とその周辺を
初め、湯浅、南部、串本等の被害が甚しかった。(続後年
代記、本朝地震考、皇年代略記、嘉永雑記考)
田辺万代記
「田辺万代記」には次ぎのように記している。
 宝永四年丁亥(一七〇七)十月四日、未の上刻(午後二
時)に大地震があり、土蔵、古家ゆり潰れ、間もなく津波
があがり、本町、片町、紺屋町多く流失し、江川浦は残ら
ず流失した。田辺大橋も落ちた。なにしろ急なこと故、老
人や子供の流死二十四人、牛馬犬猫らの死亡数知れず、人
々は蓬萊山、上野山などへ逃げた。船も家も一所になり、
夕方までに三度津波がやって来た。夜に入っても来るかも
しれないと、人々は皆山上に臥た。夜分に松明や提灯で家
材道具を拾い寄せたが、紛れこむ盗賊が多く、御役人が取
締られたけれど、一向に行き届かなかった。(原文候文体)
一浦辺在村々の儀、田辺同様に崩れ候筋流れ候筋数々有
之、委細書記すること能わず。
宝永六己三月左之通書之 田辺町

一流失 二百六十九軒
一潰家 二百七十四軒
〆五百四十三軒
出典 新収日本地震史料 第3巻 別巻
ページ 307
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 和歌山
市区町村 和歌山【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

IIIF Curation Viewerで開く
地震研究所特別資料データベースのコレクションで見る

検索時間: 0.003秒