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項目 内容
ID J0900249
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔浜名湖今切口の変遷〕○静岡県▽
本文
[未校訂]はじめに
 静岡県浜名湖の湖口付近の地形は、明応七年(一四九
八)と宝永四年(一七〇七)の地震津浪によって、二度大
きく変化した。それで湖口の歴史をこの二つの時点で三つ
に区切って、新しい方から順に「近世後期」、「近世前期」、
および「中世期」とよぶことにする。この二つの津浪の他
に、慶長九年(一六〇五)、安政元年(一八五四)にも地
震津浪がこの地方をおそっており、延宝八年(一六八〇)、
元禄一二年(一六九九)には未曾有の高潮がおそってい
て、それぞれ小規模な地変を生じ、関所や宿場の移転がく
りかえされてきた。図1の破線は江戸時代の東海道の経
路を示しているが、浜名湖口には橋がかけられず、通行は
船渡しによっていた。その西の船着場には[新居|あらい]の関所が置
かれていた。この関所の建物は現在も一部保存され、「新
居関所史料館」になっているが、ここに「浜名湖口変遷
図」という往古から近世にいたる地形変化を示した八枚の
絵図が保存されている。新居町役場発行の「わがまち・あ
らい」という本にに、これらの絵図のほかに地形の変遷を
示す絵図が六枚掲載されている。これらの絵図を現代の地
図に照合し、各種の地震・津浪・高潮記録、および中世の
紀行文などを参照しながら、浜名湖[今切口|いまぎれぐち]の変遷史を近世
から古代へとさかのぼって、たどっていくことにしよう。
近世後期の浜名湖口
図2は原田吉太郎氏所蔵の明治初年の絵図である(「わが
まち・あらい」より転載)。新居の関所と宿場を形成する
街路の配置がとくに詳しく描かれている。二万五千分の一
の地図と照合すると、絵図の正確なのに驚かされる。図の
中央には関所と無坂宿「中船着」と間の航路が朱線で表現
してある。関所から出た航路はじゃかごで護岸された弁天
島を縦貫する水路を通っている。今切口から入ってくる外
洋の高浪の影響を避けるためであろう。航路長は五十三丁
五十間(五・九㎞)と注記してある。新居沖合の東西に二
つ並んだ島には、沖の島に「元アライ」、手前の島に「中
アライ」と記し、それぞれ東西、南北の長さが書かれてい
る。
 今切口の広さは三六〇間(六五五m)とある。これらの
数字も参考にして、二万五千分の一の地図に絵図の配置を
プロットし、海岸線を描くと図3が得られる。絵図で濃い
色で表わされている街道と航路を破線で示した。住宅の密
集する市街は斜線ハッチを入れて示した。中アライ、元ア
ライの両島の南北と、弁天島北方の陸地は、すべて明治中
期以後の埋め立てによってできたものである。
 安政元年(一八五四)一一月四日の「安政東海地震」の
津浪は、新居、舞坂両宿にも来ている。新居は関所が大破
し、付近の潰家一〇軒、半潰家三一軒を出している。溺死
者一四人を出した。舞坂は全宿浸水した。全戸五一七軒の
うち流失八軒、壊家八軒と被害は比較的少なかった。この
地震による地変は舞坂付近と[雄踏|ゆうとう]町([宇布見|うぶみ])に沈下の記
事があるだけである。
図1江戸時代の東海道□内はあとに出てくる図の範囲
 この「近世期の新居関所、新居宿」の図と、宝永四年
(一七〇七)地震の津浪の後、「中アライ」から移転する
前の図と比較して、宝永津浪がいかにはげしいものであっ
たかを見てみよう。
図2明治初期,舞坂と新居渡船が通っていた頃の新居宿,関所の周辺図(資料提供・原田吉太郎)
近世前期の浜名湖
 近世前期の浜名湖口の地形は、明応七年(一四九八)の
大津浪によって形成され、宝永四年(一七〇七)の大津浪
に至るまで続いた。この間慶長九年(一六〇五)に中程度
の地震津浪があり、また延宝八年(一六八〇)、元禄一二
年(一六九九)に高潮の害を受けて小規模な地変がおきて
いる。上述の「浜名湖口変遷図」の第四図には元禄一二年
以前の、第五図にはそれ以後の様子がえがかれているが、
両図は関所と宿場の位置がちがうだけで地形には大差はな
い。その第五図を図4に示す。両図を地図にプロットした
図3近世後期の東海道と湖口
図5近世前期の東海道と湖口
ものを図5に示す。元禄一二年(一六九九)以前の旧関所
は「阿礼の崎」とよばれる岬の先端付近にあった。元禄一
二年八月一五日の高潮は、関所を殆んど全壊してしまっ
た。それで元禄一四年、旧関所の二丁(二二〇m)西の藤
十郎山に移転した。外洋からの高波を避けて半島北側を選
んだのであろう。これに伴って関所の西に隣あっていた新
居宿城町の二八九軒もともに移動した。これを中新居とい
う。図5にはこの両時点の様子を一枚の図に示してある。
図7中世期の東海道と湖口
図4宝永4年,地震津波による新居関所の中
之郷移転以前の図(新居関所蔵)
この新居宿の移動に伴って舞坂・新居間の航路が二七丁
(二・九㎞)から一里(三・九㎞)に延びた。このせっか
く新築した関所も宿場もわずか八年後宝永地震の津浪で移
転を余儀なくさせられるのである。図3と図5を比較して
わかるように宝永四年(一七〇七)一〇月四日の東海大地
震に伴う津浪は、この新居宿のあった半島の根元を海に変
えてしまった。このとき関所は全壊し、一般の家屋も当時
八〇五軒のうち二四一軒流失、一〇七軒破壊、溺死二四人
というありさまであった。そしてこの半島部分が二つの島
になってしまったことは図3に見る通りである。津浪のの
ち関所と宿場は、当時人の住居のまばらであった中之郷の
現在地に移転した。なお宝永四年から一〇二年前の慶長九
年(一六〇五)一二月一六日の夜にも地震と津浪があっ
た。「当代記」という文献に舞坂に泊った者の証言が引用
されており、それによると、当時一〇〇軒ほどであった橋
本で七〇軒が流失したという。この当時すでに新居が宿場
の形をなしていたことは、慶長七年六月の「路次中駄賃之
覚」という文書の存在で明らかである。上の証言中には橋
本の被害だけを述べて自分の泊った舞坂や、その中間の新
居宿の被害には言及していない。これはこの二つの宿場の
家屋の被害が橋本より相当軽かったためと考えられる。さ
て図5によると津浪の被害は海辺にあった舞坂や、半島先
端にあった新居の方が橋本より被害が軽かったというのは
一見奇妙なことのようにみえる。実は橋本の南を流れる西
川は時代をさかのぼるほど幅が広かったらしく、慶長津波
当時にはV字型の湾をなしており、橋本がちょうど津波の
図6明応7年8月の地震津波以前の湖口(資料 疋田櫃治氏所蔵)
エネルギーの最も集中する湾奥に位置していたため、ここ
でより大きな被害が出たのではないかと考えられるのであ
る。
中世期の浜名湖口
 図6は疋田櫃治氏所蔵の絵図(「わがまち・あらい」か
ら転載)で、明応七年(一四九八)八月二五日の地震津波
以前のようすが描かれている。「わがまち・あらい」には
このほか二、三の同様の絵図があり、それらの知識を総合
して地図にプロットすると図7のようになる。この図と図
5とを見比べると、地形の変化があまりにはげしいのに驚
かされるであろう。明応地震の前には湖の水は浜名川とい
う川を通って海に流出していた。そして東海道は橋本と小
松茶屋との間に架っていた浜名橋で横切っていた。旅人は
渡船する必要がなかったのである。橋本の地名もこの「浜
名橋」のたもとにあるのに由来するという。当時橋本と、
その北側の北山、それに対岸の日ケ崎は、それぞれ橋本千
軒、北山千軒、日ケ崎千軒といわれるほど繁栄した宿場で
あったという。新居の名の起こりとなった[阿礼|あれ]の[崎|みさき]のとこ
ろ、後世元アライと記されたあたりに荒井の集落があっ
た。その位置は近世期の新居関所の十二三丁(一・四㎞ほ
ど)東であったという。浜名川の河口には帯ノ湊という港
があり、現在の松山付近に当っている。そして日ケ崎から
前沢(当時舞坂はそうよばれていた)にかけては北に湖、
南に海を見る砂の道がつながっていた。当時浜名湖は淡水
湖であった。ということは外海の最高潮位のときにも海水
が浜名川をさかのぼって湖に入らなかったということであ
る。つまり浜名湖の水位は外海より一メートル以上高かっ
たのである。また舞坂は後世のように海に面していなかっ
た。図に示すように湖岸線はずっと北側を通っていたので
ある。
 明応七年(一四九八)八月二五日南関東から東海地方の
沖合にかけて震源域をもつ巨大地震がおこり、沿岸は大津
波におそわれた。この時浜名湖全体が沈下し、今切口が開
いて海水が入り、浜名湖は塩水湖となった。その翌年、明
応八年六月一〇日には、東海地方伊勢湾を中心として洪水
におそわれた。その高潮が今切口から湖内に侵入し、それ
までおだやかな内陸湖であったためまったく高波に無防備
であった湖岸の各村落が被災した。宇布見(図1参照)の
村民は丘の上の金山神社に逃れて助かった。それ以来この
神社の祭礼日は六月一〇日となった。湖北の佐久米の沖
合、高瀬というところにあった村落も湖底に没した。そし
て繁栄をほこった橋本も、北山、日ケ崎とともに完全に流
失し、一部の村民は東北の方から湖につき出た半島の先、
村櫛に移住した。村櫛とは「村越」の意味であるという。
また湖口にあった角避彦神社(もとの正確な位置は不明、
図7の角杙神社のことかともいう)の神璽が細江町気賀に
漂着したと細江神社の由来記は伝えている。「尾崎孫兵衛
の先祖はこの高潮の時みかんの木の枝に引っかかってよう
やく一命をとりとめた。その子孫は今も橋本に住んでい
る」と宝永五年、新居関所の関司富永政愈は書き残してい
る。京都に住んでいた高位の公家飛鳥井雅康はこの大変な
時期に富士見物に出かけ、往復二度この地を通っている。
彼の遺した和歌集体の紀行文「富士歴覧記」によると、彼
は明応八年六月一日、往路の途次にあって湖の西岸鷲津
(図1参照)の本興寺に着き、翌二日、宇布見へ船で渡っ
ている。これは実に宇布見に高潮がおそうわずか八日前の
ことである。ここで彼は鷲津から、湖口付近を避けて船で
直接宇布見まで渡った事実に注目しよう。もはやこの時浜
名湖口は前年の地震津波のために今切の口が開いていたこ
とを間接的に証言しているのである。彼は帰路六月一〇日
小夜中山を通り一三日曳馬野(浜松北方)を出立し、一五
日白須賀の塩見坂まで来ている。したがって彼は一三日か
一四日には高潮に被災したばかりの湖岸の村落を見たにち
がいない。しかし彼の文にはそのことは一切述べられてい
ない。そのため明応八年六月一〇日に高潮が来たというの
はウソであつて、実は明応七年八月二五日に地震津波が湖
口をやぶり、そのまま湖内に侵入して湖岸各地にまで被害
が及んだのを後世何かの理由で明応八年六月一〇日と日付
を誤って伝承されたのだという説がある。しかし筆者は豊
橋や桑名地方に明応八年六月一〇日に洪水があったという
記録を見つけた。また橋本や宇布見に伝えられた伝承の素
朴さからこの日高潮があった事実を否定することはできな
いと考える。やはり地震津波と高潮は別の日におこってい
るのだ。飛鳥井雅康の紀行文は実は「どこどこに着く」
「そこでよんだ歌」という世俗離れした和歌集である。高
潮におそわれた民衆の悲惨なありさまなどこの本にふさわ
しい内容ではなかったのである。
鎌倉時代以前の浜名湖口
 明応時代以前、この地方の地震、津波、高潮のことを書
いた文献はほとんどない。まして信頼のおける絵図など全
くない。しかしながら平安時代の中ごろから鎌倉時代、中
世前期の浜名湖口が近世のように湖が海に開いていて旅人
は渡船していたのか、あるいは明応以前のように湖が閉じ
ていて、ただ川で海とつながっており、旅人は橋を通って
容易に往来できたのかということなら、判定する材料があ
る。京都と鎌倉、あるいは東国の間を旅した貴族や僧侶た
ちの紀行文である。
 まず堯孝法印は永享四年(一四三二)九月一六日ここを
通った。彼の「富士紀行」に「浜名橋をうちわたして」と
あるので湖は閉じていたのだ。阿仏尼は「いざよひの日
記」の中で弘安三年(一二八〇)この地方を西から東に通
ったことを記している。浜名湖口は橋を通ったとも船で渡
ったとも書いてないが天竜川では渡船によったことを明記
しているのでやはり浜名湖付近は容易に通過できた。つま
り橋があった。すなわち湖は閉じていたのだ。
 源親行は仁治三年(一二四二)やはり橋を渡っている
(「東関紀行」)。源光行も貞応二年(一二二三)四月一一
日に橋を渡ったことを明記している(「海道記」)。そして
有名な「さらしな日記」の作者菅原孝標の娘は一〇一七年
ここを東行した時「くろき(黒木か?)をわたしたりし」
が三年後寛仁四年(一〇二〇)上京する時には「跡だにも
見えず、船にてわたる」と書きのこしている。しかしこの
文も浜名湖口の情景をのべた前後の文を見比べると決して
近世のような今切が開いて一里余の長い渡船をしたのでは
なく、その川を船で渡ったと言っているにすぎないことが
わかる。つまりこの時も湖は「閉じて」いたのである。
古代の浜名湖口
 貞観四年(八六二)遠江国浜名橋が修造された。橋の長
さは五六丈(一丈=〇・三mとすると約一七〇m)、広さ
を一丈三尺(同三・九m)である、と「三代実録」に記さ
れている。「橋本」の名の真の由来となった橋は実にこの
古代の橋にまでさかのぼりうるのである。そして浜名湖が
浜名川を通じてのみ海とつながっているという「閉じた」
状態は、明応七年(一四九八)以前、実に八六二年にまで
さかのぼってたどることができるのである。ところが「文
徳実録」嘉祥三年(八五〇)八月、角避彦社を官社に列す
る詔の条に「湖一口あり、開塞常なし、湖口塞れば則ち民
水害を被むり、湖口開けば民豊穣を致す。或は開き或は閉
じ神之を実す」とあり、この年代以前に湖口が閉じたり開
いたりした時期があったことを示している。
むすび
 ここ二、三年、筆者は古文書から防災の知識をさぐると
いう方向に研究を進めてきた。そして一つの古文書をより
正確に読むためには災害に関係のある史料だけ調べるだけ
では不十分であって、各時代の常識や、地元に住む人達の
常識、それに文献の素性に関する知識が不可欠であること
を強く感じるようになってきた。浜名湖口は東海地方の中
心に位置しており、歴代の巨大地震、津波の害を最もきび
しく受けてきた。また交通の要衝にあったため信頼のおけ
る古い記録や伝承が豊富に残っていた。武者金吉などによ
って集められたこの地方の地震史料の記事も、ここに述べ
た地形と村落の変遷史の知識が基本にあってはじめて正当
な評価を下すことができるであろう。
出典 新収日本地震史料 第3巻 別巻
ページ 211
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 静岡
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