[未校訂](元文三年午の仲春旧記)
元文三年午の歳、我等六拾六歳なり、七拾年来色々の変是
あり候得共、天下泰平に治りたる御代に生れ、今老年に罷
成候て其日かぎりの渡世かるく送り申事、ひとへに天命に
かないありがたき事に存るなり。
一生の変と申はまず六拾年以前、延宝八年申の八月大風津
浪夥敷事、前代未聞なり我等宅床の上へ五尺浪うちあげ申
候、家内は不残山の上へ引上り申候。
翌酉の年洪水大雷諸処の高山くみ申候。我七歳の年なり其
節当村にて人馬ともに七人土の下になり死するものあり。
扨又二十七年前宝永四年丁亥の十月四日昼九つ時大地震、
高山さけ土地さけ我等屋敷上の山くみ居屋土蔵おしつぶれ
候、然共家族のもの壱人も怪我なく前の畑へ逃出候、しば
らく過ぎ津浪打上げ山へにげ上り候、同月廿三日富士山焼
け夥敷こくうなりひゞき、其夜五つ時東の方に火出空を飛
散り何とも知れず、唯火の雨ふり世界も今滅するかと女わ
らんべなきさわぎ申候、扨其節の地震につき無調法の次第
申置なり、唯慎可申事は公事訴訟口論なり申間敷事を公儀
申上候へばたとへ理を申とも苦労いたし、金銀をつかいあ
やうき事なりまして、理法権の三つにて候得ば下々のもの
重々の理にても上へ対し候ては其理たちがたく、法と権威
にて下の理うすくなり申事なり、廿七年以前亥の十月四日
右の大地震津浪にて、新堤下田方潮に入作も捨て申候に付、
其年極月へ入候て惣百姓申候は御拝借米弐百俵願上げくれ
候へと申に付て、其段御役人方へ申上候得共相叶い不申、
然夫庄屋組頭四人小百姓七人江戸へ罷下り、其段御願申上
候処に国元へ罷帰候へと被仰付候へども、御当地にて願の
通被仰付被下候得と達て御願申上其段不届に被思召 庄屋
丑之助 権兵衛組頭刑部左衛門七郎兵衛闕所追放に被仰付
候 子の三月十五日の事也。
(中略)
一前畑は親人若き時分我等共幼稚の節取立被申候、水あさ
なる所三尺、水深き所五尺の所を段々埋立大方成就に罷
成候、地震前荒の拵立候処に地震にて地下りに罷成、地
震翌年より所を立去り候ゆへ 修覆打捨置候得共十ケ年
以前より存立潮除け堤石垣致し候。