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項目 内容
ID J0900228
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔今切御関所留・吉田藩記録〕○静岡県浜名郡
本文
[未校訂](今古覚帳)
一遠州今切渡濫觴
一遠江国敷知郡笠子庄新居駅は往古より繁華の地にて橋本
村千軒日ケ崎村千軒北山村千軒といふ明応の頃風波の難
ありて民居流溺し村地滅没して渡りと成よしいひ伝ふ、
編年小史云明応八年己未六月十日遠州橋本甚雨大風海(嘯カ)漏
潮溢浜居皆漂蕩湖海之間駅路亦所没因成舟航是曰今切駅
宿曰新居云云慶長五年迄百二年正徳四年迄百十五年也これ所に云伝ると同じ明
応の頃には陸地続きけるを彼難に地裂て湖海ひとつに成
てけり往還舟渡をなす新居舞坂の間今切と名つけて海上
四拾町はかり有旧の橋本村は今の橋本村の白洲浜の方也北山村といひしは今の北山村の浜のかた日ケ崎は新居の向白洲
浜住吉森と八王寺森の間也関所より十町はかり南にあたる也新居舞坂の間むかしは弐拾町有しか度々怒潮のために破られて新居の方へ広かりた
る也新居より大崎村まて弐拾弐ケ村西海辺と云舞坂の方村
櫛村迄東海辺といふ一説西海州東海州と云是は即海岸に傍て北の方に
至れば陸地つゝきて本坂越と云気賀通とも云此所は近藤氏代々領して関
を守る険難の地也
三関所奉行職順
(前略)
一宝永四年丁亥牧野大学領知之時十月四日大地震大波打上
ル事三度此時関所総破壊新居町屋潰れ候事三百四拾四軒
流れ失候舟四拾余艘溺死之男女弐十四人渡海止事四五日
右地震にて番所つぶれ丈余之怒潮打上ルニ付而番人等関
所之御条目証文印鑑□諸帳以下道具等仕廻之□之土手江
上り此難を避る則早々吉田江相達吉田より江府江注進之
一同十一月坪内覚左衛門阿部式部道中筋為見分新居着
一同十二月為新居見分竹村惣左衛門御勘定組頭・細田伊左衛門御代
官・春木郷助・杉庄次郎両人共ニ御勘定到着関所可改移之場所見
分吉田よりも大学役人等出之尤新居者頭五味六郎左衛門同在番之
目付同所町奉行出合被相尋候儀共挨拶之源太山麓中之郷
海又弥太郎と云ものゝ新田可然場所に付番所可引移地に
見分極まる見分之輩言上之後弥此地に極り地主弥太郎には於本新居替地被下といふ只今之地に引移
之儀願之
一見分相済右之輩帰府之後弥右之場所地形築立関所可引遷
之旨被 仰出依之故障之儀も無之□合之儀吟味之上大学
家来より証文可指出之旨
一正徳元年辛卯杭木打足シ是又窪嶋一郎兵衛奉行之掛塚村
三浦屋甚三郎請負之杭木金高員数不知
一舞坂之方瀬浚請負人江戸白銀町松葉屋喜兵衛宝永四年亥
より来ル申年迄十ケ年之間請負ニ而相詰る是は地震前に
道中奉行安藤筑後守申付之
出典 新収日本地震史料 第3巻 別巻
ページ 199
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 静岡
市区町村 湖西【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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