[未校訂]姫街道が脇往還としてもっともその機能をあらわしたの
は、宝永四年(一七〇七)十月四日の東海道地震の直後で
あった。このとき、今切の「御関所潰レ津波ノ上ル事大斗
ニシテ三度」で「渡海止ル事四五日」(冨田政愈「御関所
由来并旧跡記」『新居町史史料編』)、そればかりでなく
「今切之渡海広罷成故、浪荒渡舟不自由」(「宝永の災害」
『細江のあゆみ』3号)になったので、一時に姫街道に人
馬が殺到するようになったのであった。『本坂御往来留書』
にも「五日の朝より本坂江往還之旅人荷物迄通り享保二酉
年迄御通行繁有之」とあって十月四日より十二月晦日まで
上下通行百四十七回、四百七十七人、翌宝永五年は上下三
百五十八回、そのうち千人以上が十二回、百人以上が六十
四回におよび、ことに同年六月四日松平民部大輔の通行に
は無慮六千人に達している。もってその混雑ぶりが想像さ
れよう。これは浜松宿をはじめ東海道の諸宿にとって「御
役難勤渡世経営不罷成迷惑」のことで、宝永六年三月には
浜松宿をはじめ舞坂・新居・白須賀・二川・吉田の六宿よ
りの「見付宿より市野村、御油宿よりすせ村江人馬継立不
申様に被為仰付被下候は、難有奉存候」という歎願となっ
た(『浜松市史史料編二』)。その結果本坂道通行の差留と
なったのが享保二年(一七一七)十一月で、地震以後十一
年目であった。といっても、享保三年四月には浄円院(将
軍吉宗の生母)の通行があるというようなわけで、やはり
本坂道を往復するものはあとを絶たなかったのである。こ
のとき動員された人馬は嵩山から袋井までの六宿で五千九
十二人、馬千八百十七匹であったという。
宝永地震は宝永四年(一七〇七)十月四日昼八ツ時(午後
二時)で、浜松城下では潰家七十一軒・半潰二十八軒・大
破五十二軒・小破四十八軒、合計二百軒ほどの被害があっ
た。領主松平豊後守資俊は御救米千三百七十四俵を放出し
救済にあたっている。津波のため今切渡船が杜絶し東海道
往復の旅客は姫街道筋に奪われ浜松宿が困窮したことはす
でに述べた。宇布見村では田畑千余石が荒地となり塩高四
百七十石余の塩浜は「海同様」になったという。