[未校訂](城代記)
掛川の被害については、松平遠江守様知行四万石、宝永三
年戌より卯年迄六ヶ年、此御代宝永四年亥十月四日大地震
仕御城御矢蔵其外御家中町家共におびただしき破損これあ
り候。
(掛川誌稿)
本州大地震にて掛川の駅家一宇も残らず転倒し、城中も多
く破損す、此時松平遠江守修覆せしに因て九曜甚多し。
とある。掛川城の被害については地震前後の城郭絵図を較
べることによりその状況を推測すると、以前三重の櫓であ
った太鼓櫓が、二重櫓に建て替えられ、楼門造の櫓門だっ
た天守下御門と二の丸中門が四足門に改められ、三の丸古
櫓、蓮堀東傍の門が失われ、三の丸南側の土塀が矢来垣に
変っており、震災より約二十五年を経て一応復旧した享保
中期の城絵図からもなお被害の一端を知ることができる。
なお故袴田銀造氏の著書掛川城略年譜に出典を明らかにし
ないが「浜松宿の被害甚だし、依て翌宝永五年掛川城主松
平遠江守は金七百五十両を六年賦にて浜松宿へ融通す」と
記している。桜井松平氏の転封先兵庫県尼ケ崎市に照会し
たが、掛川時代、宝永地震関係の史料は見つかっていない
とのことであった。
宝永四年以降の地図では、付近一帯は陸地化しており、嘉
永五年渡辺謙堂著の遠江小図には「横須賀港は宝永四年丁
亥一〇月四日大地震にて埋れり、其後山名郡福田村を港と
す」とあるという。一方磐田郡誌の宝永地震の項には、
「福田村地内中島村境に添いて港口押開き、今之浦川、其
の他の川これに注ぐに至り擊船地となる」とある。したが
って、宝永地震により小笠山麓が隆起し、福田町付近では
陥没したとみることができる。また、この時の御前崎の隆
起量は一~二米といわれている。