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項目 内容
ID J0900206
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔ふるさと百話十四〕○静岡県
本文
[未校訂](横須賀藩略記)
宝永四年(一七〇七)十月四日正午ごろ、大地震が襲来し
た。土佐沖を震源地として、日向より伊豆にわたる地帯が
主で潰家二万五千、死者四千九百といわれた。同年十一月
二十三日午前十時ごろ、富士宝永山爆発と相次いで大災害
を蒙った。当時の模様を長溝村桑原家の古文書によれば、
(古文書略、一八〇頁参照)
 このたびの二度の大地震で横須賀港は塞がり、入り江一
帯は地盤が隆起して各所に砂地、沼地、湿地や丘ができて
城の前は葦原と化した。正徳三年二月一日、城主西尾忠成
は港口の今沢村に堂宇を建立し八大竜王を祀って、港の再
開を祈願した。
 横須賀港の最盛期は元禄年間で、当時回漕問屋として世
に知られた豪商来家多七は、この港を本拠に活躍し、江戸
小舟町に出店を置き、石材に至るまであらゆる物質を扱
い、蝦夷松前から九州筑紫にわたり、本土の表海を縦横に
交易した。
この地震により横須賀港は衰微してしまった。
 江戸時代、元禄のころまでこの辺一帯は入海であって遠
州灘唯一の良港として船の出入が多く、当時横須賀港を姥
が懐(おばがふところ)と呼んでいた。いかに風が強くて
も、波荒い時であっても、この港にはいればちょうど赤児
が姥の懐に抱かれたように静かだったので、この名が付け
られたのである。その後、宝永四年の大地震から地面が隆
起して、港をなしていた入江が上がって港としての用をな
さなくなった。
出典 新収日本地震史料 第3巻 別巻
ページ 185
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 静岡
市区町村 静岡【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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