[未校訂](横須賀藩略記)
宝永四年(一七〇七)十月四日正午ごろ、大地震が襲来し
た。土佐沖を震源地として、日向より伊豆にわたる地帯が
主で潰家二万五千、死者四千九百といわれた。同年十一月
二十三日午前十時ごろ、富士宝永山爆発と相次いで大災害
を蒙った。当時の模様を長溝村桑原家の古文書によれば、
(古文書略、一八〇頁参照)
このたびの二度の大地震で横須賀港は塞がり、入り江一
帯は地盤が隆起して各所に砂地、沼地、湿地や丘ができて
城の前は葦原と化した。正徳三年二月一日、城主西尾忠成
は港口の今沢村に堂宇を建立し八大竜王を祀って、港の再
開を祈願した。
横須賀港の最盛期は元禄年間で、当時回漕問屋として世
に知られた豪商来家多七は、この港を本拠に活躍し、江戸
小舟町に出店を置き、石材に至るまであらゆる物質を扱
い、蝦夷松前から九州筑紫にわたり、本土の表海を縦横に
交易した。
この地震により横須賀港は衰微してしまった。
江戸時代、元禄のころまでこの辺一帯は入海であって遠
州灘唯一の良港として船の出入が多く、当時横須賀港を姥
が懐(おばがふところ)と呼んでいた。いかに風が強くて
も、波荒い時であっても、この港にはいればちょうど赤児
が姥の懐に抱かれたように静かだったので、この名が付け
られたのである。その後、宝永四年の大地震から地面が隆
起して、港をなしていた入江が上がって港としての用をな
さなくなった。