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項目 内容
ID J0900198
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔磐田郡誌〕○静岡県▽
本文
[未校訂]王子神社 西浅羽村富里元鳥羽野字門田に在り。
承久三年二月十六日長田庄司貞家という者、尾張国より当
村に移住し、同人の寄付に依り本社の拝殿を造立せしこと
古老の申伝へなり、其の後、文正元年及寛永四年の震災に
罹りて潰壊し、天保五年の火災によりて神器書類等焼失す
と雖も、其の後本殿を建立せり。
(都司注)寛永は宝永の誤写であろう。
蔵本寺 於保村[五十子|いかこ]字東本田に在り。
慶長二年、全久院第二世潤室文歳の開創なり、宝永五年、
第三世林教堂宇を建替へ、造宮し自ら中興となる。
江川湊の由来(幸浦村)
西同笠の伯仙庵は、もと泊船庵と書けり。此村の西に江川
湊ありて、船の泊する所なりし故名づけしなりとぞ。(郷
里雑誌)
湊は往古江川湊と云へり。現時湊の南北砂地低窪葭葦叢生
する所、[古口|ふるくち]と称し、古代港口なりしと云伝ふ。昔は諸井
川東方に流れ、浅羽水害多く、伊奈忠次検地の時正南に掘
割せしも其の幅狭く、農夫は担棒にて飛越えたる程なり
き。延宝八年海嘯にて弁天港塞り、中島河豚池へ近傍悪水
集合海中に流出する吐口を作したれど、未だ船舶を擊ぐに
至らず。二十七年を経、宝永四年地大に震ひ、福田中島の
境に港口押開き、爾来百年の間に港口の移動四回に及び、
享保年間現今の港口開けたりと云へば、江戸湊の古趾は其
の間の名残ならんか。其の名を江川湊と云ひしは、曾て江
川太郎左衛門♠に寓し、其の名を此こに止めけりとなん。
(寺田彦八郎氏蔵本に依る)
出典 新収日本地震史料 第3巻 別巻
ページ 177
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 静岡
市区町村 磐田【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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