[未校訂]宝永四年(一七〇七)に大地震と富士の大噴火とが連続し
て起った。大地震暦年考によれば、「十月四日未刻(午後
二時)東海道大地震にて破裂し海辺は洪浪にて人多く死
す。此日風少しも吹かず空晴れ世界に雲見へず暑き事極暑
の如く暫くありて東南よりゆり出し大地震す。其ゆるゝ事
天地も一つになるかと疑ふ大地二三丈にわりさけ水わき出
山崩れ人家潰るゝ事将棋倒しの如し諸人広場に走り出五人
七人手に手をとり組うつぶしに伏すと雖三間四間のあひだ
を転ばし或は仰向になり又うつ伏しに返され半時ばかり大
ゆり有て暫して止るその間に気を失う者数しれず」とあ
る。
此の大地震は駿府にて十月四日昼過と五日朝と二回ゆれ為
めに城中所々大破を蒙り本丸二の丸三の丸とも石垣が数ケ
所崩壊した。町の被害も勿論相当甚しかったらうと想うが
記録がないので明でない。徳川実紀に「宝永四年十月四日
大地震あり駿城内外破壊せるよし注進あるにより少老稲垣
対馬守重富に久能山御宮巡察命せられて御手づから羽織を
給ふ。小普請方属吏も重富に従ひかしこに赴かしめらる。
十五日稲垣対馬守重富久能山より帰謁す。廿七日普請奉行
水野権十郎忠順小普請奉行間宮播摩守信明久能山御宮御修
理並に駿城石塁修理命ぜられいとま(ママ)たまふ。翌年六月廿八
日駿城修治成功により榊原式部大輔政邦は時服十五松平伊
豆守信輝は十給ひ駿城にあづかりし普請奉行水野権十郎忠
順は金七枚時服二羽織一駿府町奉行水野小左衛門守美は金
三枚時服二羽織一を給ふ」と見えて居る。
この時の修理の事は榊原家駿城御普請文書によれば此年十
二月九日駿府御城三の丸御石垣御多門等御修復に就き播州
姫路城主榊原式部大輔勢州桑名城主松平越中守下総古河城
主松平伊豆守の三人御手伝を仰付られ、駿府町奉行水野小
左衛門御普請奉行水野権十郎の両人御修復奉行仰付られ翌
五年正月より破損小屋出来追々修復始同年五月残らず出来
したとある。而して榊原家の受持った丁場は大手門の南側
(御用邸前)の折れ曲の処及び少し離れた南寄の場所で水
敲七百四十二坪高石垣八百三十五坪余の工事であった。他
の両家の丁場は分らないが此の年は外観上要害上取り敢へ
ず三の丸丈の修理を先にしたのである。
本丸並に二の丸の石垣修復は、正徳元年(一七一一)十一
月甲府城松平甲斐守が手伝を命ぜられた。翌二年(一七一
二)二月六日宿継を以て江戸より次の通知状が来た。
今度駿府御城石垣御修復に付川舟運送の為巴川筋北安東村
之内御城近辺迄堀の船入に成候近々取懸り申候様御勘定奉
行へ申達候尤御普請相済候へは舟入等相止候旨被仰下
候。(駿城護衛系譜)
工事は同年四月より始り十二月竣工した。往昔城普請の時
石材運送の為め巴川筋より北安東村へ堀割が出来たといふ
伝説がこの地方に在るがそれは此の時の事であったのであ
る。つゞいて同三年(一七一三)十月より翌四年八月にか
け本丸二の丸の堀浚があって両堀から一万弐十本余の石が
揚った。此の復旧工事は八ケ年目にすべてが完成した訳で
ある。
又富士の爆発は大地震のあった翌年廿三日より十二月八日
の夜まで活動をつゞけた。連日北風が吹いたから黒雲のや
うな煙は大山の崩れるやうに東へ東へと広がり夥しい灰や
砂を降らした。同月九日早天やうやく晴れ山の東の方に小
山が出現した。即ち宝永山である。焼口は一里四方余であ
ったと伝っている。降灰の被害につき徳川実紀に散見する
所を綜合すれば「四年十一月廿三日けさ未明より府内震動
をびたゞし、はたして駿河の富士山の東偏火もえ出て砂灰
吹出し近国の田圃みな埋没せしとぞ聞えし、廿五日けふも
地震しば〳〵なり富士山の砂灰田圃を埋没せるよし聞えけ
れば徒目付を巡察につかはさる。廿六日富上山焼により久
能山に駅書をはせて御宮の安否をとはせ給ふ。十二月七日
代官勘定の徒に守口を巡察せしめらるこれも地震によって
なり。五年正月十六日令せらるゝは武相駿三国の中去冬富
士山焼にて灰砂埋没せし村里今に其儘になし置くよし聞
ゆ。春耕以前とりすてしむべき旨地頭より命すべし。多く
は埋没して民力及びがたき地も先とりかゝらしむべしかさ
ねて査検せられし上にて賑救あるべし。五年閏正月七日令
せらるゝは去冬武相駿灰砂ふり積りし村里賑救の事あれば
こたび各国役金を課せらる公私領ともに百石に金二両宛の
定もて上納すべしかつ領地遠近あればとりあつむるまで日
数を経延滞すべければ万石以上は領主よりとりかえて三月
限り上納し万石以下は六月を限りておさむべし、官長ある
輩は一際限りに受取り目録もて官長より納むべし。官長な
き輩は上納の時あらかじめ達すべしはた五十石より下の零
額並に寺社領は免さるべしとなり」云々とある。