[未校訂]宝永四年(一七〇七)十月四日午後二時頃突如大地震襲来
し、五日朝又到り、駿府城中所々大破した。六日高家織田
讃岐守信明が京から帰り来てその趣を注進に及んだ。少老
稲垣対馬守重富は久能山東照宮巡察を命ぜられ小普請方属
吏を伴って駿府へ走った。其の他町中の被害も勿論相当甚
しかったであろうが記録がなくて明らかにすることが出来
ない。
不安の裡に一箇月をすごすと十一月二十三日には富士山が
大噴火をした。宝永山は実にこの噴火の所産であった。
「大地震歴年考」に当時の消息をつたへている。
十一月四日未刻大雷雨。同二十三日富士山麓須走口より
山焼出し其響大雷の如く近国大地震にして灰の如き砂ふ
りて暗冥咫尺もわかたず黒夜の如し、江戸白昼に挑灯を
用ふ諸人大に怖る。翌日に至りて天晴て皓日出諸人安堵
す。同二十五日より又天くもり砂降り地震して暗冥た
り。同二十八日に至り天晴れて常の如し。
富士山の噴火に依る被害は甚しく飢餓から領民を救ふ措置
は考究された。関東郡代伊奈忠順は修治の役を命ぜられ公
料にされた埋没地の修復に従ふことになった。
駿府城の破損については同月(十月)二十七日普請奉行水
野権十郎忠順駿府町奉行水野小佐衛門(守美)、小普請奉
行間宮播磨守信明等が命ぜられ久能山東照宮修復並に駿府
城三ノ丸石垣御多門等修復の事に当り次で播州姫路城主榊
原式部大輔勢州桑名城主松平越中守下総古河城主松平伊豆
守の三人が手伝となり翌五年(一七〇八)一月から破損小
屋を仮設し五月には復旧を終った。又本丸並に二ノ丸の石
垣修復は正徳元年(一七一一)十一月甲府城主松平甲斐守
が手伝を命ぜられ、翌二年二月十六日宿継を以て江戸から
次の達が来た。
今度駿府御城石垣御修復に付川舟運送の為巴川筋北安東
村之内御城近辺迄堀の船入に成候。近々取懸申候様御勘
定奉行ヘ申達候。尤御普請相済候へば舟入等相止候旨
被仰下候。(駿城護衞系譜)
尚ほ往昔城普請の時石材送運の為め巴川筋より北安東村へ
堀割が出来たといふ伝説があるがそれは此の時の事であっ
た。つゞいて同三年(一七一三)十月より翌四年八月にか
け本丸二ノ丸の堀浚ひがあって両堀から一万(ママ)二十本の石が
揚った。此の復旧工事は八箇年目に全く竣成した。