[未校訂]こうしたなかで、宝永四年(一七〇七)十月四日と翌五
日、関東から東海・四国地方にかけて突如大地震がおこっ
た。久能山東照宮は破損し、駿府城内が壊れ、遠州新居関
はくずれ、町は津波に洗われた。この地震は遠州灘沖と土
佐沖にそれぞれ震源があり、ほぼ同時に活動したために太
平洋岸全域に大被害をもたらした。この地震の規模はマグ
ニチュード八・四ほどでわが国の地震史上の超大型地震で
あった。駿河国では一三四三軒が倒壊、一九三〇軒が大
破、死者は一三人であった。遠州では二四五町余の田畑が
荒地となり、一九六〇軒が倒壊、二四六三軒が破損、一四
二軒が流失、二〇人が死亡した。伊豆国では一一六八軒が
流失し、死者一一人にのぼったのであった。
宝永地震後の清水湊
市域では清水湊が津波におそわれ、三保貝島と向島が沈降
し、薩埵峠がくずれ興津・江尻両宿の家屋が倒壊し、清見
寺の膏薬屋は残らずつぶれてしまった。富士浅間神社社僧
飽休庵は、この時十六歳であったが、のちに当時を回想し
て、「立って歩くことはできず、ころびながらはいずって
歩き、屋根や[庇|ひさし]のおさえの石が落ちかかって危険であっ
た。神社仏閣は震れ傾き、地割れがして水が吹き出し、東
海道は隆起し、人々は大地震のあとには必ずゆりかえしが
あると伝えられていたため、仮小屋でまんじりともせずに
夜をあかした」と述懐している。清水町や江尻・興津の町
場で津波を受けた人々をはじめとして多くの人々が不安な
夜をすごした。幕府はただちに大社寺に地震鎮伏の祈禱を
命じた。そして物価の値上げを禁ずるとともに諸国に巡見
使を派遣して被害状況を調べさせた。
地震のため清水町では向島が地盤沈下し、石垣がくずれ、
波は荷物置場を洗い家屋にまで潮が入りこむありさまであ
った。そのため石垣普請を駿府代官に願い、たびたび江戸
へ出向いて窮状を訴えた。清水町では普請費用を金四千四
百六十二両と、銀十三匁余と見積り、工事を清水町で請け
負おうとしたが、御用商人と見られる者が幕府に清水町の
一割引での請負い願いを出した。そのため清水町では再検
討し、一割一分余を引き下げて金三千九百六十両で請け負
うことがきまった。清水町ではこの請負いを契機に建築資
材や人夫の飯料を地元の商人が取り扱い、早急な景気回復
をはかった。この工事は勘定奉行荻原重秀や中山時晴らの
協議と老中土屋政直の決裁を受けて実施がきまった。駿府
代官はこの決定を宝永七年(一七一〇)正月に名主・問屋
らに伝えた。こうして宝永大地震後二年余をへて、当時湊
口といっていた本魚町から美濃輪町はずれまでの巴川河岸
の石垣と向島の防波堤工事が決まり、修築されたのであっ
たが、この工事は復興と同時に流通拡大に対応した新たな
設備拡張の意味もあったのである。
東海道の宿々には巡見使として酒井左衛門尉忠真が派遣さ
れ、江戸と畿内とを結ぶ幹線の修築が行なわれた。江尻宿
では宿並みの裏の巴川の堤防一一四〇間の修築が江戸町人
請負いで実施された。また「江尻宿町囲辻村田地浪除囲」
の海岸ぞいの防波堤一二五〇間(敷三間・馬踏九尺・高さ
七尺)がこの時築かれた。これは東海道にほぼ平行して流
れる愛染川(江川)の形成した砂州に築かれたもので、堤
に植えられた松林は「猫林」といわれた。
興津宿は、街道から波うちぎわまで十数間しかなかったた
め、「少々の土手」を築いてはいたが、毎年八月土用のこ
ろには田畑が波をかぶり、元禄十二年(一六九九)の大風
雨の時には、街道まで波がうち寄せ交通が危険となったほ
どであった。そのため興津宿では、以前から防波堤の築造
を願っていたがずっと無視されていたところ、宝永地震を
契機としてようやく築造された。東海道から一三間離れた
海辺にそって七五〇間(敷三間・馬踏六尺・高さ九尺)の
堤で、三〇二間が興津宿分、四四八間が中宿町分であっ
た。