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項目 内容
ID J0900146
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔芝川町誌〕○静岡県▽
本文
[未校訂]宝永四年(一七〇七)一〇月四日夜半大地震が発生し、振
動三〇余回におよんだという。この時富士山が噴火した、
すなわち宝永の噴火である。火山灰は南は岡部から、北は
茨城に至るまで降灰をみたといわれ、翌日も翌翌日も焼土
を降らせ、原・吉原は数尺の高さにまで積った。この地震
によって、白鳥山が崩れ長貫部落その他に大きな被害を与
えた。この時の震度は、マグニチュード八・六といわれ
る。詳細は民間信仰供養塔の部に掲載する。
長貫八幡宮(長貫字宮谷戸三二七番地)
祭神は、応神天皇にして、創建不詳、明治八年二月一八日
村社に列せらる。
社地改替、元この地より、北の方の山上にありしを宝永五
年この所に降ろしたという、即ち今存する棟札はその時の
ものなるべし。
棟札、宝永五戊子正月吉日 駿州富士郡長貫村氏神之宮 
境内神社
甲子神石像 建坪壱坪 慶応元年頃創建という
村民旧家の伝説
 宝永四年 富士山噴火の余響にて大地震あり、庵原郡内
房村の白鳥山くずれて川をふさぎて人畜多く圧死または流
失し、その時村名主の家も埋没して一村の旧記ことごとく
亡失せり。今の社地も其の時出来たる小山なりという。こ
の村はすべて富士川に沿いて、長さ一里の村なり、安政元
年の震災にも同所の山崩壊し川をふさぎたるを目撃せる古
老ありと語る村人あり。
竹養山正法寺由来
下って宝永四年富士山の大爆発の際、震災により堂宇こと
ごとく崩壊し、ために第二〇世日奨上人広く信徒に呼びか
け本堂・祖師堂・鐘楼・七面堂・番神堂・庫裡・慈眼坊・
道仙坊の諸堂を復旧し、当山の面目一新す。故に日奨上人
を推して中興の祖となす。
楠金の八幡由来
宝永の頃瀬戸の沢家の前、部落の西方に、この僧は祭ら
れ、部落の氏神としてうやまわれていたが、大地震のため
社殿が損傷し、宝暦四年頃、佐野八良右衛門並に佐野惣右
衛門が願主となって現在の地に勧請したという。
毎年のお日待ち、一〇月一六日にはこの僧を祭ってある八
幡社のご開帳を行なう。鍵取りは瀬戸の沢の代代の当主が
行い、たとえ僧侶でもご開帳できないことになっている。
楠金三二戸の氏神である。
宝永大地震供養碑
長貫部落の北、線路脇の草の中に白鳥山に向って建てられ
ている供養碑は、宝永の大地震の際の大被害の供養のもの
である。
宝永四年一〇月四日突如大地震があり、長貫部落の対岸白
鳥山が崩壊し、みるみる富士川をせき止めさらに長貫部落
小洞の民家七軒を埋め男女二二人の惨死者を出した。この
慰霊のため明治一一年建立したものである。
出典 新収日本地震史料 第3巻 別巻
ページ 119
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 静岡
市区町村 芝川【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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