Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J0900120
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔三島市誌〕○静岡県
本文
[未校訂] 宝永四年(一七〇七)十月四日には大地震が起り、伊豆・
甲斐以西の諸国は倒壊家屋多く、大阪では民家一万戸以上
が倒れて三千人の死人を出し、中でも土佐(高知県)では
田畑が多く海底に陥落し津波のため死者二千余人を出した
という。(画報近世三百年史)続いて十一月二十二日八つ
時(午後二時)より二十三日朝まで当地は度々地震に見舞
われ二十三日朝四つ時(午前十時)には夥しい震動があつ
て富士山が噴火した。
 富士山の近くの村々では、焼け石の降ること雨の如く、
石の大きさは一人してようやく持つほどの石、又は茶釜・
にぎりこぶしほどのもの等大小降り、人家へ落ちて火事を
起すところも出た。二十六、七日頃より砂がまじり降っ
て、四、五日の内に所によっては一尺以上或は一丈も降り
積り、三島より二、三厘の近くまで逃げ来り宿を借りて住
む者数を知らず。西風のため箱根より江戸までの道中は石
砂夥しく降り、江戸も一両日は夜の如く暗くなり、二十
七、八日よりようやく晴れた。と矢田部文書は記してい
る。年末には降灰と雪のため江戸周辺では「咳病」がはや
つて皆苦しんだという。三島宿では昼なお暗く、噴火によ
る降砂は大地を薄く蔽うたほどで、不断に震れること十余
日に及び、家内にいる者は一人もなかったという。三嶋大
社では二十四日から一日まで鎮静安穏の御祈禱を社家総出
で行なっている。(寺尾・河辺・矢田部町誌)なお宝永山
はこの時噴出したものである。
出典 新収日本地震史料 第3巻 別巻
ページ 109
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 静岡
市区町村 三島【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

IIIF Curation Viewerで開く
地震研究所特別資料データベースのコレクションで見る

検索時間: 0.001秒