[未校訂] 宝永四年(一七〇七)十月四日には大地震が起り、伊豆・
甲斐以西の諸国は倒壊家屋多く、大阪では民家一万戸以上
が倒れて三千人の死人を出し、中でも土佐(高知県)では
田畑が多く海底に陥落し津波のため死者二千余人を出した
という。(画報近世三百年史)続いて十一月二十二日八つ
時(午後二時)より二十三日朝まで当地は度々地震に見舞
われ二十三日朝四つ時(午前十時)には夥しい震動があつ
て富士山が噴火した。
富士山の近くの村々では、焼け石の降ること雨の如く、
石の大きさは一人してようやく持つほどの石、又は茶釜・
にぎりこぶしほどのもの等大小降り、人家へ落ちて火事を
起すところも出た。二十六、七日頃より砂がまじり降っ
て、四、五日の内に所によっては一尺以上或は一丈も降り
積り、三島より二、三厘の近くまで逃げ来り宿を借りて住
む者数を知らず。西風のため箱根より江戸までの道中は石
砂夥しく降り、江戸も一両日は夜の如く暗くなり、二十
七、八日よりようやく晴れた。と矢田部文書は記してい
る。年末には降灰と雪のため江戸周辺では「咳病」がはや
つて皆苦しんだという。三島宿では昼なお暗く、噴火によ
る降砂は大地を薄く蔽うたほどで、不断に震れること十余
日に及び、家内にいる者は一人もなかったという。三嶋大
社では二十四日から一日まで鎮静安穏の御祈禱を社家総出
で行なっている。(寺尾・河辺・矢田部町誌)なお宝永山
はこの時噴出したものである。