[未校訂] そこに更にやって来たのが宝永四年の大地震である。こ
のことにつき熊谷家伝記は次のように記している。
宝永四年八月十二日近年の大風に有之よし、其前八月十九
日にも大風如是。両度の風にて諸作一向不取。云々。十
月四日大地震。此節伯父庄右衛門満島へ用事有って当家に
一宿し、四日之昼過に福島へ出、金田氏へ立寄、暫らく休
息して未ノ剋に移る時分に松島通り満島へ被行筈にて、福
島を出ける処に、道に踏迷ひ、福島之上之松休所に出たれ
は、地震ゆり出し行けす。云々。(熊谷家伝記)
宝永四年十一月二十三日より同十二月十日迄、富士山焼
る、砂烟り天に上り、日月を曇す事、間二十日に及ぶ。此
節富士山に添て小山壱つ出る、是を宝永山と号す。云々。
(熊谷家伝記)
又飯田世代記、飯田旧事記には次のように記されてい
る。
宝永四年六月洪水、十月四日大地震、飯田にて潰家五十
軒、半潰百軒、土蔵二十ケ所、同半潰六十八ケ所、(飯田
世代記)
貧乏人に御下米被下、潰家一軒に材木十本、繩十把、半
潰家一軒に材木五本、繩十把領主下さる。(飯田旧事記)
また市田村庄屋上原彦右衛門筆記歳中行事(筆者蔵)に
は次のように記されている。
十月四日晴天、午ノ下刻申酉方より大地震おびただしき
事、近年稀なる事どもなり。我家の下道動り破、長さ七間
程、その外川東山々のなぎ一度に崩れ、土煙四方に立ち見
ゆる、同時に動き止み候。飯田町屋土蔵等方々崩れ夜に入
り二度、夜明に一度、昼七つ時より七度、夜明けまでに十
度也。飯田町五十軒程。蔵八十ケ所程動崩し由聞く。
宝永四年十一月二十三日夜明けにも地震四つ時まで三度動
く、五つ過より未ノ刻迄、辰之方何回ともなく、山なり雷
のごとし、何之鳴るとも定めがたく、皆人胆をつぶし候。
夜五つ時より又強く鳴り出でなり申し候。世人不安にて終
夜を過す。夜七ツより明方にいたり鳴止、夜は丸雪少しづ
ゝ降る。
何れの記録もその頃の模様を伝えてくれて有難く、これに
対しいちいち説明する必要もなかろうが、この時代の地殻
は内部的にも移動を始めていたのではないかと思う。