[未校訂] 宝永の地震=元禄に次いだ宝永。この四年(一七〇七)
十一月富士山は噴火し、宝永山が新たに生れた。富士火山
系の活動にともなふ地震が此の章の初に述べらるべきもの
であらう。
北安曇郡志の語るところによると、三月十五日大地震、
千国村山岳崩れ男女三十人、牛馬八疋死亡。四ケ庄堀内村
人家四十八軒潰、男女十四人、牛馬三十六疋死亡。中谷村
雨中に於て二軒、来馬村雨中に於て四軒、同宮本に於て四
軒、土谷村の下瀬に於て六軒、同村由尾に於て二軒潰れ姫
川満水し沿岸の潰家を失すと。
この十月四日大地震あり関東、東海の被害ことに甚大な
るものがあった。宝永四年(一七〇七)は春夏秋の三季と
も地震があり、ついに十月の大地震、十一月の富士噴火と
なったのであらう。寺記の録するところによれば、六月廿
五日北小川村川手区奈良尾地籍大抜けにて、四百石(馬曲
組)の人足を動員し人家を掘り出させたとあるが、この大
抜けも宝永地震に因るものではなからうかと推察されるの
である。 (法蔵寺蔵)