[未校訂]「史料」巻二・四二四頁上の〔平山日記〕と左記の点で
異る
「史料」頁 本史料
四二四・上・十六行 例ヘハ たとひは
〃 二十二行 唐竹 細竹
〃 下・一行 共外 其外
五行 子供♠も 子供抔も
七行 抔大堰 抔如大堰
九行 「拾四人弘前」の前に「内」を入れる
二十一行 「近在」の前に「此」を入れる
四二五・上・十行 「外三」以下より十四行「所黒」
までは次の通り
外馬屋 三百六拾壱個 在方之分
寺社之分
寺 十八ケ寺 内三ケ寺焼寺
僧弐人潰死 御本領にて
寺男三人
女壱人 門徒宗にて
内五ヶ寺黒石
右之内僧弐人
四二五・下・六行目を三行目に入れる
〃 十五行 焼失而又 焼失、尚又
〃 下・二十行のうしろに以下の文を入れる
○明和五戊子年
○春立より諸々宮林の木大木多枯れ申候、是は戌年地
震にて根ゆるぎ故の義也
○此年五月下旬六月末迄雨ふらす旱魃とかく大地震の
後ハ七八年も地定り不申水引方多雨ふりても渇水有
之ものなるに猶以久々雨ふらす義故旱魃尤の事な
り、前々延宝三卯年五月廿七日、元禄七戌年五月廿
七日、宝永元申年四月右三度の地震の後も水不足致
候段人々申候