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項目 内容
ID J0803382
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1751/05/21
和暦 寛延四年四月二十六日
綱文 宝暦元年四月二十六日(一七五一・五・二一)〔高田・越後西部〕
書名 〔柿崎町史〕○新潟県中頸城郡
本文
[未校訂] 宝暦元辛未年(皇紀二四一一 昭和十一年ヨリ一八五年
前)四月二十五日丑の刻(午前二時)大地震あり、其中心
地帯は高田より名立附近に及び、其被害頗る大なるもので
あった。今其概況を記せば、高田市中の町家二千四百九十
六軒潰、同三百十六軒破損、町方死人二百九十二人、出火
三ヶ所、家中の侍屋敷百五十七軒潰、同四十四軒大破、長
屋六十九棟潰、八棟大破、家中死人三十三人其他城郭社寺
の倒潰大破等多く家中町方共に怪我人夥しく、在郷では各
地田畑、用水、橋梁の大破多く、潰家、半潰家合して六千
余軒死者五百人生死不明二百六十二人、特に居多、長浜、
桑取谷等では全家屋の半数は潰れ、残りは概ね大破して死
者も多くあった。名立駅の如きは上名立の裏山崩れて海中
に埋沈し、人馬難犬に至るまで悉く没失し死者八百余人に
及んだ。当時大瀁用水江通保倉川へ抜落大破、塔ケ崎溜池
大破、潟川水路三千間崩潰、鉢崎佐渡金蔵大破、鉢崎関其
外往還道、山抜にて大破、鉢崎海岸通り三分の一は山の下
となったと、そして大震後余震半ケ年に及び初冬に至りて
漸く人心安堵した。同年十一月一日幕府は救済として高田
藩に金一万両を貸下げた。藩では内八千両を以て城内及び
家中の普請を営み一千両を在方に一千両を町方に貸付け、
宝暦十一年十二月に至りて返金した。
出典 新収日本地震史料 第3巻
ページ 545
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 新潟
市区町村 柿崎【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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