[未校訂] 宝暦元辛未年(皇紀二四一一 昭和十一年ヨリ一八五年
前)四月二十五日丑の刻(午前二時)大地震あり、其中心
地帯は高田より名立附近に及び、其被害頗る大なるもので
あった。今其概況を記せば、高田市中の町家二千四百九十
六軒潰、同三百十六軒破損、町方死人二百九十二人、出火
三ヶ所、家中の侍屋敷百五十七軒潰、同四十四軒大破、長
屋六十九棟潰、八棟大破、家中死人三十三人其他城郭社寺
の倒潰大破等多く家中町方共に怪我人夥しく、在郷では各
地田畑、用水、橋梁の大破多く、潰家、半潰家合して六千
余軒死者五百人生死不明二百六十二人、特に居多、長浜、
桑取谷等では全家屋の半数は潰れ、残りは概ね大破して死
者も多くあった。名立駅の如きは上名立の裏山崩れて海中
に埋沈し、人馬難犬に至るまで悉く没失し死者八百余人に
及んだ。当時大瀁用水江通保倉川へ抜落大破、塔ケ崎溜池
大破、潟川水路三千間崩潰、鉢崎佐渡金蔵大破、鉢崎関其
外往還道、山抜にて大破、鉢崎海岸通り三分の一は山の下
となったと、そして大震後余震半ケ年に及び初冬に至りて
漸く人心安堵した。同年十一月一日幕府は救済として高田
藩に金一万両を貸下げた。藩では内八千両を以て城内及び
家中の普請を営み一千両を在方に一千両を町方に貸付け、
宝暦十一年十二月に至りて返金した。