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項目 内容
ID J0803350
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1751/05/21
和暦 寛延四年四月二十六日
綱文 宝暦元年四月二十六日(一七五一・五・二一)〔高田・越後西部〕
書名 〔越佐歴史散歩 上越編〕
本文
[未校訂]名立崩れ(その一)
 北陸線名立駅裏山は、鳥ケ首岬を中心に約一・五キロメ
ートルにわたり急峻な断崖を形成している。そしてその断
崖の最高所は海面から一六〇メートルにあって、断層は写
真(注、写真略)でも分るようにかなりはっきりと三層の
地層を示している。即ち上部頁岩(けつがん)・中部礫岩
(れきがん)・砂岩の順に――。そして断層の下、つまり欠け
た部分の所を町の人たちは、丁度それが棚のようになって
いるところから、タナと称している。そこには崖からの水
を年中たたえている小さな池があり、タナは今では狭い土
地ながら畑地として利用され、断崖の中腹の豊富な水量は
名立町の上水道の水源となっている。また、その断崖上に
は百万燭光の国立名立灯台があり、一きわ目立っている。
 駅付近の街村を名立小泊と称しているが、その旧道沿い
に漂流機雷爆発犠牲者(昭和三十年三月三十日)の冥福を
祈った「平和を守る」という石碑のたっているのが目に止
まる(この事件については後にゆずる)。そこを町の人た
ちは、無縁塚と呼び、名立崩れの犠牲者供養の墓と新旧二
基の墓石が並んでいて、今でも墓前には花の絶えることが
なく、四月二十五日には読経供養が行なわれている。
 今から二一五年前、即ち寛延四(一七五一)年四月二十
五日夜丑の刻(午前二時)頃上越一円に大地震があった。
丁度その日は名立の漁民が沖合いで、名立の山々が「赤気
立のぼりて火事のごとく」なった(橘南谿・東遊記巻二)
のを見て不思議に思って帰村したと記されている。また、
頸城郡誌稿案には四月二十五日は「昼空ノ色薄赤ク風モナ
ク霞雲リテ空合近ク暑キコト六月ノ時候」のようだった
り、雁が東の空へ大群をなし飛んで行くのが目立ち、五智
から高田にかけ清水や井戸水が濁ったと記している。
 地震は翌二十六日午前六時頃までに何度か起こり、翌二
十七日も引続き、なお数日間震動し、高田ではこの日潰れ
た家もあった。更に地震の余波は五月十日頃迄に一〇〇余
度、六月中頃までに毎日四、五度ずつの震えがあり、次第
に軽くはなったが、七月十一日頃には日に二、三度、八月
も同様、九月三日暮頃再びかなりの地震、十一月六日午後
十時頃、八日午前二時頃、翌年の正月二日と震動が続い
た。
 四月二十五日の地震は高田では各所に水が湧出したり、
泥砂が吹き出し、城郭・大手門をはじめ土居廻りが崩壊、
士屋敷や町家が潰れ火災が発生した。この地震によって高
田領内で全壊あるいは焼失した戸数は六、〇八八、死者は
一、一二八人となっているが、上越全体では幕領を含めて
の死者は二、〇〇〇人にも及んだ。この地震がいかに想像
に絶する大きなものであったかがわかる。
 名立の断層はこの地震の際に生じたもので、そのため名
立小泊は壊滅的な被害を受けたのであった。
(桐木 節)
名立崩れ(その二)
―宗龍寺の梵鐘―
 名立町に宗龍寺という曹洞宗の寺院がある。その寺院の
本堂入口に梵鐘が下げられており、それは所謂「名立崩
れ」を物語る唯一の遺物であるといわれ、無銘ではある
が、戦時中の金属回収にも供出を免れた貴重なものであ
る。この鐘は明治初年名立町の漁師により海中より発見さ
れ宗龍寺に納められたものであり、写真(注、写真略)に
よっても分るように上部の乳と呼ばれる部分や鐘面が、何
か当時の惨状を物語っているようで興味深い。
 寛延四(一七五一)年四月二十五日夜八ツ時(午前二時)
上越一円におそった地震は、名立小泊を中心に大きな断層
を生じ、山崩れを生じた。そして、当時の名立小泊は壊滅
的な被害を受けたのだった。
 幸い、当日梶屋敷の陣屋に出向いていたため助かった庄
屋池垣右八が早速この地にもどり、御役所へ「乍恐以書付
御注進申上候」と翌々二十七日付でかなり詳細に報告して
いる。この地震で名立小泊は五二五人(本籍人口)のうち
四二八人の人命を失い、民家も九一軒のうち八一軒埋没。
流出し、四軒本潰、三軒半潰の多きを数えた。又生き残り
の者についても、前記右八は翌五月「差上申一札之事」と
してその惨状を「山崩れによって生き残った者は一〇〇人
余あるが、四〇人程はたまたま他所へ奉公に出ている者で
あり、此外は僧一五人(字中才を中心とした寺院二、民家
九軒は残る)他の七人程は重傷の為半生体で、復旧の為に
働ける者は七~八人程である。」と報告している。
 しかし生き残った者とて「小泊村地内ニは小屋懸等仕候
場所も御座無候ニ付大町村村立裏ニ少々の小屋をかけ罷在
候得共当日を送り候儀難成餓死候躰に御座候」と、それで
なくとも猫の額ほどの土地しかなかった寒村の、三分の二
以上の耕地と生活の地盤を失った悲惨な有様を記してい
る。
 その後の復旧についても右八らを中心に推進されたがな
かなか進まず、名立小泊の戸数は災害後の一四戸から明治
三年になっても五三戸、昭和頃になって当時の状況に復興
したに過ぎなかった。
 この名立崩れが後に医者であり旅行家であった橘南谿の
「東遊記」になり、又岡本綺堂の脚本となって、世に知ら
れた。この梵鐘についても、これらの事実を知ることによ
り、一しお感慨深く見つめられるのである。
 殊に昨今新潟地震に続く松代地震と関連して、とみに地
震について関心が高まっている折柄地震の恐しさと、対策
を身にしみて感ずる思いである。(桐木 節)
出典 新収日本地震史料 第3巻
ページ 485
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 新潟
市区町村

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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