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項目 内容
ID J0801580
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1718/08/22
和暦 享保三年七月二十六日
綱文 享保三年七月二十六日(一七一八・八・二二)〔信濃〕羽前・越後・江戸・遠江・京都・奈良・名古屋
書名 〔南信濃村史・遠山〕▽
本文
[未校訂] 正徳五年(一七一五)の「ひつじ雨水」は伊那谷でも最
も被害の大きかった災害だといわれている。享保に改元さ
れたが災害は続き、享保元年(一七一六)の洪水・翌二年
の百日も続いた日でり・七月の大地震・八月の浅間山大噴
火と矢継ぎぼやの災害に当時の人心の混乱が想像される。
 享保三年七月二六日に起きた大地震は、遠山地方に大き
な損害を与えた。竜渕寺過去帳に、
享保三戌七月二十六日地震にて寺大破、石橋不用致、雨
落之石ニ用之也、八尺間石橋大町鎌倉小左衛門建之。
乍恐書付を以奉願上候
私控地之内高拾弐石三斗四升四合目去ル四拾八年以前戌
年七月大地震ニ而山落仕押出候(後略)と記されている。
 和田城の西麓にあった盛平山の西方の一角が地震により
崩れ落ち、夥しい土砂岩塊を押出し遠山川を堰きとめ、同
時に主峰から分離した一山を現出した。これが出山で和田
小学校のすぐ北東方に聳ゆる小峰である。堰き止められた
遠山川は湖水となり、一時に決壊し、濁流は滔々と西方に
溢れ出し、一夜のうちに広い河原を作った。それが今の夜
川瀬部落となった。以来、遠山川は前より数町も西方に移
動し現在の川筋となった。此の大地震のとき、和田宿の片
町家の五人は茶摘みに出かけていたが、落下する大岩石の
下敷になって圧死し、その供養塔が残っている。
出典 新収日本地震史料 第3巻
ページ 181
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長野
市区町村 遠山【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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