[未校訂] 新地部落の言い伝えによると、「元禄十六年十一月二十
二日の夜、新地村の人たちは、諏訪神社の題目堂で二十三
夜講の集まりを行なっていた(その時午後十二時頃大地震
があったが、)まもなく月が上るのでそれを拝んで帰ろう
と、一同、月の出をまっていた。
やがて海上に月が上って来たので、それを拝んで帰ろう
としたらどうしたことか、今出た月が見えなくなくなって
しまった。しかも空はよく晴れて雲一つない。「これはお
かしいぞ」とよく見ると、海の水がぐんぐん引いて沖の瀬
が現われている。「これは津浪だ、月が隠れたのは、沖へ
津浪が来て、その波のために見えなくなったのだ、早く家
の者を起こして逃げろ」と一同大急ぎで家に帰り、寝てい
た家人を起こして避難した。
そのために、この三夜講に出ていた人の家では、死人が
なかったといわれている。
ところが、すぐ隣の部落にある本興寺の入口に、この時
の津浪の供養塔がある。これを見ると、塔の下に三八四人
の死体を合葬してあると刻まれている。この人達は、引取
り手のない、一家全滅の人たちだけだと思われるので、家
族が生き残っていて死体を引取ったのを加えると、大変な
死者であったと思う。
ちょうど真夜中、皆よく寝ている時に、突然しかも地震後
よほど経ってから大波が襲って来たのだからたまらない。
一宮下ノ原部落の言い伝えでは、「下ノ原部落の人は、
津浪というのであわてて上ノ原方面に逃げた。その途中に
善貞という沼があって、その近くを通って逃げた人は沼の
中へ押し流されて助からなかった。部落の人で、屋敷内の
大木によじ登って助かった者があった」ということである。
また、東浪見には、「ヅウヅミサブロエム」と呼ばれる
人があった。この人は、津浪がきた時「いなぶら」につか
まっていて命が助かったということから、ヅウヅミ(昔
は、いなぶらのことをヅウヅミといった)の三郎衛門(サ
ブロエム)の名が付けられたという。
ことに気のどくなのは、権現前の長谷川某さん、夜中に
摺臼ひきをやっていた。その摺臼の音で津波の来るのが聞
こえなかった。そのため一家が波に呑まれたということで
ある。
これらのことを見ても、津浪の時は逃げられるらしい。
有名な小泉八雲の書いた「稲村の火」にもあるとおり、注
意していれば難は避けられるものである。
3 元禄の津浪
元禄十六年十一月二十二日子丑刻(午後十二時)大地震
があり(震源地、安房の東南海上)翌二十三日未明に大津
浪来襲。
○(一宮本郷村、新笈村)一宮町一宮の被害
宝暦二年(一七〇五)一宮、新笈両村名主、組頭連名
で代官野勢権兵衛に差出した訴えによると、
一、流出家屋 一六六軒
二、砂埋亡所{田、三五町四反九畝
畑、四四町九反
計八〇町三反九畝
とあり、家を流された者は、一門縁者を頼って、その者
の屋敷をせばめて小屋がけの生活をしながら、男女残ら
ず出動して今までに、一七町三反歩の砂掃をしたが困窮
して復旧が出来ないから、御公儀様御入用をもって御普
請を願いたいと願い出ている。
この訴をみると、人家と田畑の被害はわかるが、人畜
の被害が出ていない。
そこでお寺の過去帳を調べてみたら、当時の記録の残
っている寺は、次の二カ寺で、他の寺には記録がなく、
全貌を知ることができない。
東栄寺(下之原)過去帳(死者七人)
伝吉、半左衛門、同妻、作次郎、同妻、同居者、庄
右衛門弟
真光寺(新笈)過去帳(死者三人)
五郎右衛門の子勘四郎、三郎右衛門、金十郎
○一宮町東浪見(旧東浪見村)
児安惣次左衛門の万覚書写によると、夜四ツ時分より大
地震三度夥しくゆり出し、少し間あって辰巳沖より海夥
しく鳴り、夜八ツ半時分津浪打上り申候、巳の年(延宝
五年)の津浪より浪の高さ四尺余りも高く、前の下通り
屋敷へ出た家は形もなく打潰され、此節又々右之会所へ
上り、せきの内の道二十間、三十間水上り、岩切下新屋
下きし上、河はし上迄浪上り申候、此の節は、先年の津
浪覚にて下通りに居住の者、大地震故早く皆々逃上り候
故、死人は多くなく浜細納屋に置候者心なくにげ上り申
さず者共十四五人死申候、とある。
また、権現前に津浪犠牲者の合葬した所があるがその
数は不明。
○一宮町宮原(旧宮原村)
古老の話によると、
「宮原の南宮神社の前の田圃に簞笥が流れ着いていた」
と言い伝えられていたから、宮原ではあまり被害を受け
なかった模様である。
○一宮町船頭給(旧船頭給村)
全然わからない。
○一宮町新地(旧新地村)
三夜講の集まりに出席しない家の者が被害を受けたと思
われるが、はっきりしたことはわからない。
上総町村誌(抄)(本書二二九頁(白子町史)参照)
○茂原市鷲山寺門前供養塔
元禄十六癸未十一月二十二日夜丑刻大地震東海激浪死者
都合二千百五十余人死亡、去癸酉五十一年忌営之、維時
宝暦三癸酉十一月二十三日
○本納町蓮福寺過去帳
元禄十六癸未十一月二十二日、子丑刻大地震、東浦人
馬死二十万人余。
(注)この過去帳をみると、津浪のあった日、海岸から
十粁余りしか離れていない本納で、こんな噂がとん
でいたことがわかる。
○驚村(長生村驚)深照寺過去帳
この過去帳には、津浪の死者名を列記してあって、その
合計は次のとおり。
総計二百六人(内訳){男 三十二人(老人多し)
女 八十四人
子 二十九人
娘 五十一人
被害世帯数四十八、うち雇人七世帯。