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項目 内容
ID J0700024
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1703/12/31
和暦 元禄十六年十一月二十三日
綱文 元禄十六年十一月二十三日(一七〇三・一二・三一)〔関東〕
書名 〔東京五千年史話〕
本文
[未校訂](徒目付千坂氏覚書)
「十一月二十二日の夜、丑の刻少し前に、大地がおびた
ゞしく雷のごとく鳴り響いたかと思いますと、たちまち大
地震ゆりだして、戸障子は倒れ、家々は小舟の大波に動か
されるように、上から下へと動きだしましたので、人々は
表へ駈けだしましたのに、足許はたちません。土地は二三
寸、所によっては五六尺程も割れ、砂または泥水は吹出し
ました。石垣は崩れ、塀は壊れ、家蔵は潰れ、穴蔵はゆり
あげられて死人怪我人一時にできて、男女老幼の泣き叫ぶ
声は大風のごとくに鳴り渡り、かつ所々からは火事が起り
ました。その火は空一面に赤く、八時過ぎ頃、品川海手の
方から大津浪が打ちあげてきて浜の方へ逃げだした者は、
そのために悉く浪に捲き取られ、この有様は到底筆紙や言
舌には申し尽せない状態でした。それから引きつゞいて、
毎日昼となく夜となく、何度も地震が起って、将軍はじめ、
市中下々の者まで昼夜野宿して明しました。しかるに二十
四日夕方から大雨がふりだして、諸人の難儀は到底申しよ
うもありません。しかしこれからは地震も相当薄らいでま
いりました。そこで破損の箇所を見廻りましたところ、御
城中では、下の御勘定所部屋から喰違門まで残らず潰れ、
三の丸土蔵二つ共潰れ、右二ヶ所では死人五人、怪我人は
無数でありました。大御留守居与力番所、二の丸銅御門、
冠木番所、紅葉山下冠木番所、内桜田御門番所、大手腰掛、
一橋御[春|つき]屋、御広敷の方御物置部屋残らず潰れ、右の所で
死人十八名、半死半生の体になっている者六人、怪我人無
数でありました。和田倉、馬場先、鍛冶橋、数寄屋橋、山
下、雉子橋、小石川、牛込、市ケ谷、半蔵、赤阪、四谷、
平川口、筋違橋、浅草橋、呉服橋、外桜田、西の丸下御
冠、虎の門、日比谷の各門はいづれも大破損し、其外、御
曲輪廻り石垣はゆり崩れ、所々の塀は大方倒れてしまいま
した。其外御府内一円(江戸市内)の武家、寺社、町家の
潰れや破損は到底筆紙に述べ難く、町奉行所への届出分だ
けでも、死者三万二千名ということでありました」
出典 新収日本地震史料 第2巻 別巻
ページ 97
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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