[未校訂]この地震については、新井白石が『折たく柴の記』に体
験を綴っているが、在野の人のものらしい記録もあらわ
れ、江戸住民の災害状況に関する認知ていどが窺い知ら
れる。以下に紹介するものは、幕末~明治期の劇通であ
り記録収集家であった関根[只誠|しせい]の「只誠埃録」に筆写さ
れたものである。少し文意不通のところもあり、たびた
びの伝写をへて幕末のころに只誠の目にふれたものであ
ろう。
震火記
天地陰陽の転変日月直なるときにハ国土安し、邪なる時ハ
窮武両民溜り変を生する事神代の昔より澆季の今に至るま
でそのき違ハすといふ㕝(ママ)なし。抑々元禄十六年未十一月廿
二日酉下刻(午後六時)より一天するとふして黒雲丑寅
(北東)に当り現ハれ月の光星の光殊に凄しく其赤き事偏
に朱をそゝきたる如し。東西に満て火をふらし魔風西北に
甚しく、夜半の頃より乾坤俄に震動して大地震ゆり来り山
川をくつかへし、磐石厳石を震砕て其音恰も百雷電の如
し。神社仏閣大小名の館町々貴賤の家々一日に震倒して数
千軒に及ふ。殿舎虹梁の倒れ落る響凄して四方仭利(ママ)の上に
も至り下ハ風輪の底巻も聞へやせんと夥し、乾軸砕けて世
界金輪際へしづミ入と江戸中の貴賤なきかなしむ事其声哀
々たり。大路ハ四角八角にわれ砕けて砂石を震出し、大木
に木根をからし葉をからさすといふ所もなく、其幅四尺五
尺深サ一丈二丈に及り。さながら道路に谷を作り庭上に浪
を移すとあやしく行人踏に足すさましく歩行に道たへた
り。西丸下にてハ大久保隠州・阿部豊後守・加藤越中守・
稲葉丹後守・柳生備前守、外桜田にてハ甲府中納言・永井
伊賀守・酒井石見守・同壱岐守、日比谷御門内青山播磨
守・松平下野守・戸田能登守・土屋相模守・同山城守・秋
元但馬守・井上大和守・松平右京太夫・松永美濃守・小笠
原佐渡守、御築地辺ニハ石川監物・五島兵部・松平藤十
郎、其外小家の屋形には微塵に倒れしかハ、或ハ押ニうた
れ或ハ瓦石にあたりて死する者凡一千人に及へり。惣門の
見附ニてハ大手・桔梗の御門、竜の口・馬場先・日比谷・
外さくら田・幸橋、数寄屋橋、虎の御門、鍛冶橋・吹上・
常盤橋・田安・呉服橋・筋違・四ツ谷・浅草・清水・平川
口・神田橋・一橋・雉子橋・小石川・和田倉・市ケ谷・赤
坂等の諸門也。其外曲輪の石垣礎震倒(せカ)さすといふ事なし。
夜半の眠の一盛り誰も目覚ぬ頃なれハ彼騒動ニ夢覚し男女
あわて起上り、小袖着る間も嵐ふく風のしむる身もいとま
あらはこそ丸裸にて出るもあり小袖きる身も帯ハなし、親
ハ子を捨子ハ親をかへり見す床をはなれて逃て行。其足も
とゆら〳〵とゆらの戸を船ならねとも震倒されて[漸|ヤウ]々にて
立出しに瓦に当り石にあたり手足を損し朱になるもあり、
或は半死半生の者助くるにいとなし。かゝる所甲府中納言
綱豊公桜田の御屋敷より俄に出火あって黒煙大満猛火烈々
たり。折節魔風はけしく炎かぜに散て五丁十町を飛越燃付
々々焼行。諸人あハてゝ我も〳〵と逸足出して走行に以前
の地震に逃出せし男女街に集り二の難に肝を消し行に寸地
なく前後に明地なし。諸家の士或ハ鎗長刀さやをはつして
せり合人を突殺し押合ものを切すて命を大事とのかれ行。
震火二つの責に老若男女十方を失ひ泣かなしみ、いかなる
一業□□の身なれハ生なから修羅道の苦をうけ死なさるさ
きより焦熱の責にあふ事よと親子手をとり主従ふしまろひ
て目も当られぬ有さま也。深川辺築地あたりの貴賤四方煙
に肝を消、漸地震も鎮りぬれは家雑具を□けんとせし処に
寅の初刻(午前三時)より海辺しきりに動揺し津浪よと呼
はる声一同にさわき立町々の男女往還狭しと群来り押合も
ミ合逃て行。深窓に長なり簾中に身を籠し奥方女中上﨟行
もならハぬ歩行はたしにて薄氷をふむ心地、瓦石に足を損
し、すそは泥やら涙やら哀にも又いたましく、果して海上
波荒く高波丈に登り海上面三町はかりも打そと見へし。か
ゝる所に深川八幡の社檀佃田明神の神前より白鷺白鳩其数
多飛来り海上に翻々せしか暫あつて雲井に飛さり、その行
方もなく諸人奇異の思いをなし、海上を見渡に今迄浪あら
く数丈に登りし高波消るかことく水の面ゆふ〳〵として秋
の月影歎然たり。貴賤不思議の命をたすかる。翌廿三日の
明ほのに己があり所に立帰り万歳を唱ふこと限なし。偏に
両社の神慮によるへしと同日に至り宮司幣帛を捧け社人法
□を供して誓のあらたなることを信仰せり。
亦相州小田原・房州・上総・加賀・筑前の地震ハ武蔵国に
十倍せり。
加賀国にハ廿二日の夜丑の下刻に大雷乾坤に満て鳴渡り暫
時に落るは凡三十七ケ所也。里人多く死す。
筑前同日同刻頻に大風山嶺の岩を降し諸木を飛して夥しく
社堂在家津々浦々一宇も残らす吹倒し死生半をわかたぬも
の幾人といふ限なし。
小田原ハ廿二日の大地震山川万里に響渡り箱根の山中一同
に巌石を震出し大山を震崩せり、旅人旅行の道失ひ関守□
屋に地を替たり。大久保隠州在城を初め城下の町々(小田
原)火半ハ震たふす、其中にも事たすかりし家も多くして
城中より俄に出火あつて在々所々片時の中に炎滅せり。僧
俗男女家財ハ捨なから命ハのかれ悦ひしに廿三日の曙に海
上に水かさまさり浪高く碧浪天をひさし岩に砕て……老少
男女津波の難を恐れ高江登り里を去り用心をせし所に、其
高さ十丈余の津波黒雲の如くにおほひ来り八里か内に打上
たり。数千の男女死をのかるゝにいとまなく一命を失ひし
ものすへて弐千余人也。男浪女浪の引けれハ半残りし男女
己か在所に走り住にし里を尋るになごりもなくしらなみ岸
にのこり浦々里々一宇も残らす滅亡せり。一家一門打集り
なくや小鹿のつかの間もはなれかたなき子にわかれ親ひと
り身のものもあり或ハ夫婦兄弟に別れ歎くもあり、そのな
きからをおもひやり爰の岸かしこの磯に立よりて海つらは
るかに見渡していかなる因果の我々と泣くより外の事そな
き。詮方波路を立去てもとの所に立帰り暫しも風雨を凌ん
と爰かしこに竹木を取りあつめ住家をしつらふ折柄に海上
前に鳴わたり数丈高き女浪男波深更に再ひ在々所々に打上
たり。寄集りし男女逃行いとまもなく南無三宝といふ声は
かり、しばしか中の辞世にて引浪に形もなし、在々所々族
大半ハほろひて生残りしハ猶稀也。此両度の水難に死人を
計るに三千弐百余人といへり。房州・上総両国都て地震水
難に四千八百余人に越たり。生者必滅会者定離の理とハ云
なからかゝる凶事に亡ふる事現在の果をしりて過去未来を
も思やり浅ましかりし事ともなり。
さても廿二日の地震ゆり出しより日数重り昼ハ終日夜ハ経
夜彗星凶星辰巳に当り憚なく現し稲妻十方に満て眼を悩し
遠里遠境を限り江府御城下に万民安きこゝろもなし。或ハ
辻に仮屋をたて道路に夢を結ひけり。かかるさハかしき折
からいかなる者かしたりけん
恵方よりらい年男地震来て万歳楽と世なをしをする
然るに当月廿九日酉の下刻より水戸宰相綱条卿小石川御館
より俄に大火出来館一同に焼上り猛火天を焦し炎雲を巻て
夥し。宵の程ハ風おたやかなりしに戌刻より魔風十方に吹
通し片時か中に御茶の水へ焼移り、松平筑後守・安藤筑前
守・石川備中守・牧野周防守・三宅備前守・本多弥兵衛屋
敷聖堂を限り本郷の町々丸山辺の寺院・松平加賀守・同大
蔵大輔・同飛騨守・本多中務大輔屋敷一同焼払ひ、神田の
下建部内匠・酒井隼人正・堀左京・藤掛采女・新庄伊織を
はしめ奇麗厳浄なる明神の社堂迄忽に滅湯一朝の烟と成た
り。聖堂の炎筋違橋の内外焼通り太田摂津守・本多能登守
……通り町より日本橋を限り江戸橋へ押移り小網町の町々
霊厳寺の在家町々、北新堀より深川江押通り此火ハ漸鎮り
ぬ。(以下略)
右の「震火記」の中で、記録者は、今の世を「澆季の
今」ととらえ、この地震を機に「世直し」が行なわれる
のだという世評を記している。これは、江戸における
「世直し」なる語の記録の上における初見であろうかと
思われる。今後の文献探索の中で訂正されるものではあ
ろうが。
ところで、この「震火記」には、「元禄変異記」と題
された異本があり、流布していた。その一本が国立公文
館所蔵の「無名叢書」四六に納められている。その跋文
によると、江戸茅場町住の中田竹翁なる七〇歳の老人が
明和年中に写したという。関根只誠筆写の「震火記」と
比べると文中異なる点が多いが、同列系の記録である。
(後略)