[未校訂] 元禄十二年海嘯実記抄写なるものが、会下島の富田家に
所蔵されてある。本書は明治卅五年五月富田平吉氏の需に
応じ石神字写すとあり原書は富田五郎右衛門と書いてあっ
た由から察するに遭難者の一人が書き残したものであら
う。
当時は太田摂津守が田中城主であり駿遠両国五万石領知
していた。時恰も元禄十二年八月十五日、前十日頃より続
いていた風雨は次第に激しくなり、暮六つ頃特に降雨量増
大したとみるや、突如大浪来襲、暫時の間白浪のみ家屋は
全然見えなかったという。津浪の第一は会下島村に第二波
は田尻村に第三波は石津村に来った模様で、田中領内駿遠
両国にて浪に逢った村数は三十七ケ村の広きに渉った。
この災害にあたり田中領主より、一人に付米三合、諸役
御赦免。会下島村へはこの外種麦代金九両六百十三文但し
一分に付二斗二升かつ又、貸付、之は翌年返納の期限付。
尚其後八月九月両度に渉り一段歩に付種籾一斗食米五升宛
貸下された。小川村では過半返納したが会下島は被害甚大
の為返納出来ずに居た処遂に赦免となった。実記抄の中に
は津浪に逢った人々の様子が細かく記されてあるが今はそ
の一つのみを記するに留める。
「爰に富田五兵衛は何たる因果の報いぞや逃げたきにも
水嵩増てならず床の上水四尺程になりにけり二階へ上りけ
るに是へも水さしけるさしも気強き五兵衛も前后を忘却す
るばかりなり。五兵衛の妻子は太田摂津守殿の身内なる徳
村覚右衛門が娘あげまきと申して最と賢き女房に力を添へ
屋根引破りて外へ出で、いぐしの際に取付きけり、誠に四
間六間の丈夫なる家なれども浪の力や強かりけん柱ばらば
らに流れて屋根の角大松にかかりける夫婦の者杉の木に取
付きてやうやう命助かりける扨も哀れや娘おすへは十二才
弟平四郎二才の子供取落し潮の泡とこそえたてけれ」(後
略)