[未校訂]二 延宝五年の津波
慶長十九年の大津波後約六十三年を経て、延宝五年三月
十二日今度は夜の子の刻即ち真夜中の十二時大地震と共に
津波が三陸沿岸一帯を襲ふた「大槌古今代伝記」(1)に
延宝五年三月十二日夜子の刻より大地震、隙もなく子の
半時に大塩津波可申程の塩さし入、浦々騒動、浜端の家
々余程損、山々へ諸道具穀物取くばり、其月中騒動致、
家の敷井まで水上る。
此の記事で見ると今度の情況は慶長十九年の時よりは穏
かであったらしい。南部伯爵家所蔵の日誌に依ると此の年
は三年から頻々とし地震があり、津波の起った十二日の如
きは戌の刻より地震間断なく、夜中に四度の大地震あり遂
に大津波の襲来となった。津波襲来後に於ても殆ど毎日の
様に地震続き非常な不安を与へた。此の地震は単に沿岸地
方を脅したのみならず内陸地方の各地方にも影響を及ぼし
てゐる。「祐清私記に」(2)に
「延宝五年三月十二日より同十五日迄大地震、盛岡在々
大破損、宮古塩上げ、死家数拾軒破損」
と言ひ、青森県史に
「八戸に強震あり、戌の刻より暁天に至り二十余回震す、
内両度最も強震にて被害多し、同十三日巳の刻又強震な
り、同十四日戌の刻より同十九日迄六日間日々地震して
止まず同三十日又々強震、四月朔日強震、越えて五月廿
日又々強震なり」
(3)とある事から見れば三陸一帯に亘った大地震であったらし
い。然し地震の割合に津波は弱かったらしく、青森県史に
も全然津波の事を記してゐないし、「大槌官職記」にも
「家々ぬきの下一尺斗りづゝ水通り候よし」とあるから高
くとも十五六尺内外のものであったらしい此の時の被害を
表示すれば左の如し
延宝五年津波被害表
被害地
宮古浦
鍬ケ崎浦
金浜浦
磯鶏浦
高浜浦
津軽石浦
赤前浦
家屋流潰
一
五
一三
―
六
―
一〇
船舶流潰
五
―
三
一〇
七
六
―
塩釜流潰
―
二
―
―
―
―
六
田畑荒地
―
四ツ
―
―
三ツ
七〇
六
支配管轄
}宮古代官所
久喜浦
湊浦
田名部浦
計
―
―
―
三五
三
―
数多流失
三四
―
一
―
九
―
―
用水提崩壊
八三ツ
}野田代官所
}田名部代官所
備考 南部家蔵本 日誌に依る。
此の外釜石、大槌方面及び小本、田老方面の被害は之よ
りももっと甚しかったらしいが今信憑すべき資料を有しな
い。又如何なる程度の救恤をなしたかも遺憾ながら不明で
ある。
注(1) 小川孫兵衛編 大槌古今代伝記 岩手県教育会
輯
(2) 伊藤祐清著「祐清私記」南部叢書第三冊 三八
三頁
(3) 青森県史第四巻 二一一頁